鳥取市歴史博物館の特別展示「写真でみるモダン都市」を3・4年ゼミで見学した。城跡の視察でいつもお世話になっている佐々木さん(館員)に、ここでも懇切丁寧な説明をしていただいた。皇太子ご成婚を記念して大正15年に刊行された写真集『因幡の栞』から、鹿野街道、智頭街道、若桜街道、川端通りの建築物を抜粋してとりあげた展示で、80年前の鳥取にはかくもおもしろい近代和風建築や擬洋風建築や町家があったことに驚かされた。このような宝の山のような建築物が、いかにして鳥取市街地から消えてしまったのか。災害だけでは、おそらく説明がつかないはずであり、それ以外のプロセスについて調べてみたくなった。


企画展見学後、学生たちには自由に展示をみる時間を与えたのだが、わたしと西垣だけは市の山田さんと打ち合わせした。県の「知の財産」事業で採択された研究「市町村合併にともなう文化財の地域問題」の手始めに、旧町村文化財指定の建造物を調査しようとしており、まず候補に上がっているのが佐治町の笹尾神社薬師堂。来週前半、4年生有志と山田さんで用瀬町と佐治町の旧町村指定建造物4ヶ所を下見し、下旬になってから3年生中心に実測調査をおこなうことになりそうだ。
博物館の常設展を堪能したあと、雨のなか、樗谿(おうちだに)神社に向かった。今日の資料準備とプレゼンは、4年の河田さん。昨日、下見に来たらしく、夜はバーベQ大会にも参加せず、ずっと資料を作っていた。雨が降っていたので、河田さんは唐門の軒下で発表し、他の学生は幣殿の軒下でそれを聴いた。さて、「因幡東照宮」ともよばれる樗谿神社ではあるが、河田さんの資料を読むと、上のほうに「権現造(ごんげんづくり)」と明記しているにも拘わらず、下のほうでは「権現造とは多少異なっている」とも書いていることに気づいた。
「結局どうなんだ?」
と問うたところ、
「権現造だが、多少異なっている」
と彼女は答えた。まぁ、これでも間違いとは言えない。しかし、わたしは、
「権現造ではない」
と説明した。本殿と拝殿が別の区画にあって、石の間(相の間)はなく、その代わりに幣殿を拝殿の裏側に突出させているだけだから、お義理で権現造に似せようとした社殿という感が否めない。

樗谿神社は、慶安3年(1650)、鳥取藩の初代藩主・池田光仲によって創建された。昨年、池田家墓所で、玉石垣・門の実測をしたのが光仲の墓であり、神社の本殿も南田石の玉石垣で囲まれている。そして、唐門には創建当初の板の門扉が残っている。光仲墓の門扉もこのように派手なものだったのか、もっと素朴なものだったのかわからないが、かりに門扉を復原するとなれば、樗谿神社唐門がまず最初に参照すべき例である。ところで、不思議なことに、本殿の玉石垣はあまり劣化していない。墓所とおなじ材料、同じ構造なのに倒れもせず、傷みもせず、どんなマジックを使っているのかと思案にくれるのだが、柱材を頻繁に差し替えているのだろうか。

本殿と唐門は檜皮葺き、拝殿と幣殿はこけら葺き。拝殿こけら葺きの傷みは激しい。前方3分の1はビニールシートに覆われて、すでに2~3年経つのではないか。国の重要文化財なのだから、国には迅速な対処をお願いしたい。
- 2005/07/15(金) 20:31:37|
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やまびこ館では、鳥取の古き良きモダン建築をみることができた。鳥取にこのような建築が存在していたことを初めて見、鳥取の新しい一面を発見した。
今回展示のは集められた写真の一部ということだったけれど、これを鳥取のモダン建築写真集として出版したら、人気があるのでは。と思った。
それから今回、見学した樗谿(おうちだに)神社の資料を作成した。またプレゼンテーションの機会を与えてもらい、発表もした。資料内の樗谿神社は権現造かというところで、はっきりと記述していなかった点も含め、これから資料を作成する機会があった場合の良き反省点となった。
- 2005/07/20(水) 03:43:53 |
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- 河田 #92J4HJj2
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