というわけで、ハノイに戻り、再び
ミンさんのジャズ・バーでこの原稿を書いている。今夜はミンさん自身がテナーを吹いている。リズムセクションも替わった。エレキ・ベースがウッドベースに変わり、ドラムは3年前に仰天したハーフの青年が軽快なリズムを刻んでいる。
驚いたことに、さきほどパソコンを開くと、無線ランがつながった。ハノイのホテルではネットに接続できないのに、このバーではネットも読めるし、メールの送受信もできる。
ハロン湾の出発は予定よりもやや遅れた。いわゆるドア・トゥ・ドア形式のミニ・バンで、あちこちのホテルに寄ってくるから、時間が安定しない。最後の乗客となったわたしたちのホテルにバンが到着した時、チェックアウトしてから1時間以上が経過し、12時40分になっていた。それでも、ドア・トゥ・ドアは便利だ。ハノイのホテルの門前にちゃんと停まってくれる。午後4時前、わたしたちは5日前に泊まったホテルに再びチェックインした。ありがたいことに、フロントには
SDINのMs.フラワーから大量の論文コピーが届いていた(大半は都市計画関係の論文であったが)。
それから大忙し。まずは5時閉館の美術博物館にすべり込みセーフ。なぜ美術博物館なのかと言うと、銅鼓と再会したかっったからだ。トンキン・デルタで出土したドンソン文化の銅鼓(紀元前2世紀ころ)には、鼓面の第7帯に2種類の建築物が描かれている。V.ゴルーベフの解釈によれば、第7帯は葬送儀礼を表現する図像であり、舟形屋根をもつ高床建物は「殯(もがり)屋」、もう一方の蒲鉾形屋根に覆われた建物は鐘堂(音楽堂)と理解される。わたしは20代後半のころ、この「殯屋」に着目して論文を書いた。「銅鼓にみえる家」と題する論文である。


銅鼓に描かれた「殯屋」は棟の両端に鳥のクビがついた舟形の屋根に覆われている。それは屋根倉式の高床建物で壁は描かれていない。その屋根の内部には人が描かれている。おそらくそれは死者と、死者を祈祷する人物であろう。鳥の首をもつ舟は「鳥舟」にほかならない。霊魂や神霊を天に送り届ける乗り物である。舟は水面を水平方向に移動する交通手段だが、船首と船尾に鳥の首をつけることで、それは垂直方向に動く交通手段となる。換言するならば、鳥舟はこの世(地上)とあの世(天上)を往来する乗り物なのである。とすれば、高床の「殯屋」はいったい何を表現しているのであろうか。わたしは、これを鳥舟を宙に浮かせている状態だと解釈している。死体=霊魂をのせた鳥舟が宙に浮いている。この世とあの世の中間に存在しているのではないか。霊魂があの世にわたりきってしまった時、「殯屋」=鳥舟はこの世から見えなくなる。だから、取り壊す。「殯屋」は、死者の魂が生者たちの認識の範囲内にあるあいだだけ存在する仮設の建物なのである。どこか大嘗祭に似た祭儀である。

こういう習俗は、おもにインドネシアやオセアニアの島嶼域に分布している。舟に乗って長期航海し、ある島にたどり着いて定住を始める。舟に住みながら、定住できる土地を探したものだから、定住後の住居には舟の残像が色濃く残った。そして、その他界観念には、水平方向に霊魂が移動する海上他界と垂直方向に霊魂が移動する天上他界が錯綜として重層した。こういう世界観=他界観がドンソン文化の「殯屋」に凝縮して表現されている、というのがわたしの意見である。
博物館はすぐに閉館となって、追い出された。それから、隣にある文廟(孔子廟)を訪れて、その建築に圧倒された。これについては、いま横で
O君2号が様式分析を試みる文章を書いている。さらに池に浮かぶ一柱寺を訪れ、続いてホアンキエム湖の池中島にたつ玉山祠の門前まで行ったが、すでに門は閉ざされていた。

夕食後、ハンガイ・ストリートを流してショッピング。チャックは念願のアクセサリー・ショップで、アクセサリーのパーツを大量に仕入れた。わたしは、工芸品店で大理石に銅鼓文様を彫り込んだ壁飾りを買った。学生時代、ドンソン文化もトンキン・デルタも遠い遠い未知の世界でしかなかったが、いまはそれを売り物にした土産物店が軒を連ねる下町でジャズが聞ける時代になった。
- 2006/09/12(火) 23:18:07|
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