
とうとう帰国の日とあいなった。とはいえ、今日は夕方までハノイで過ごし、ホーチミンから機中泊で関西空港に帰国するので、時間はたっぷりある。
それにしても疲れてしまった。学生たちには「自由に行動しなさい、わたしは部屋にいるので」と指示したのだが、かれらもホテルを出る気にはならなかったようだ。チェックアウトの時間=12:00ぎりぎりまで、ホテルでねばって自由な時間を各人各様に過ごした。わたしは、
ハロン湾で調査した水上集落の配置図データを整理した。まる
2日かけてスケッチした野帳(A4サイズ2枚)のデータを整合させながら、A3サイズの地形コピー図に手書きで清書していったのである。その結果わかったことは単純きわまりない。
「筏住居は地形に沿って並んでいる」
このことが図面によりはっきり見てとれる。野帳ほどの迫力はないけれども、きわめて理にかなった空間構成がそこに描き出された。ということは、わたしとチャックで作りあげた配置図は、そう大きな誤りがない、ということだろう。

昼食はバンコ・ハノイまで出かけた。3年前、わたしはシェムレアップ(アンコール遺跡群&トンレサップ湖)から、助教授は日本から渡越し、ハノイで合流した際、まずこのレストランに駆け込んだ。じつは、二人ともタイ料理が大好きなんだ。学生たちも、バンコ・ハノイのタイ料理には大いに満足した。疲れた体をトム・ヤン・クンが癒してくれる。今回の調査旅行で口にした料理のなかでは、
フエの宮廷料理が最高、それに次ぐのが今日のタイ料理だとみな思った。

↑ゴクリュ鼓 ↓ホアンハ鼓

昼食後、歩いて歴史博物館に行った。昨日の
美術博物館は
文廟のついでに寄ったようなもので、銅鼓の展示も少なかったが、今日の歴史博物館には1階にドンソン文化の銅鼓がずらりと並んでいる。ヘーゲルⅠ式の典型とされるホアンハ鼓とゴクリュ鼓が目の前にある。まぎれもない「本物」である(はずだ。レプリカとは書いてないが、レプリカの可能性がまったくないとは言えない)。そして、両鼓の文様第7帯を注視すると、鳥舟形の屋根に覆われた高床建物=「殯(もがり)屋」 がはっきり見える。ただ、銅鼓の年代を前5世紀にまで遡らせてているところが気になった。わたしが論文を書いていた1980~90年代の常識では、ホアンハ鼓もゴクリュ鼓も雲南の前漢石寨山青銅器文化とほぼ併行する前2世紀前後の遺物(または伝世品)と理解されていた。前5世紀となれば、中国では戦国時代にあたり、たしかに雲南でもその時代の家形青銅模型(銅房子)および銅鼓も数点出土しているが、それらは、ホアンハ鼓やゴクリュ鼓よりもはるかに古めかしくみえる。

↑歴史博物館の東隣を走るチャンクアンカイ通りと城外の町並み。↓城外の旧スクウォッター地区。

歴史博物館のすぐ東隣には、チャンクアンカイ通りが南北に走っている。それはハノイの環状線のような幅の広い自動車道なのだが、これを遺存地割として読み取るならば、あるいは城壁(および城濠)の痕跡ではないか、と思われる節がある。チャンクアンカイ通りの外側に紅河が迫っているからだ。紅河とチャンクアンカイ通りのあいだには、ダウンタウンと似た高密度居住区が形成されているのだが、この地区は旧市街地とは異なり、船上生活者が陸上がりしたスクォッターの進化した姿ではないか、とわたしは思っている。その理由をあげておこう。まず第1に、この居住区の位置が紅河に近い城外にあたること。第2にダウンタウンと雰囲気が似ているものの、外国人向けの施設は皆無で、タクシーがまったく居住区内道路を走っていないこと。そして、第3に居住区と接する紅河の岸辺には、数は少ないけれども、今でも家船が点々と浮かんでいることである。
紅河の流れは、ほんとうに紅い。地形を削って河流が運ぶ泥土に多量の鉄分が含まれているからだろう。その紅い流れの水際に筏住居が点々と分布している。ドラム缶で浮かべた筏住居もあれば、船を2艘並べて床を張る筏住居もある。また、流れに逆らうように、1艘の家船が上流に向かって波を切っていった。こういう家船や筏住居が1~3艘単位で河岸に散在しつつ停泊しているのだ。
3年前、ハノイを初めて訪問した時にも、最後は紅河の流れをみて、家船らしき船の遠景をズームで撮影した。それが2004年に刊行した報告書の表紙を飾った。あの表紙に浮かぶ船が家船か漁船か、じつのところまり自信がなかったのだが、それが家船であることを今日確認した。その点では、実りある最終日であった。かつてハノイにも、おびただしい家船が群集していたに違いない。

↓紅河の筏住居群。↑河川敷を利用した畑と筏住居。
- 2006/09/13(水) 19:01:14|
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