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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

舟のメタファ -標津町ポー川史跡自然公園

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 札幌の丘珠(おかだま)から根室中標津に飛んだ。フエ以来のプロペラ機である。今日も飛行は安定していた。低空飛行で、地上の景色が綺麗にみえる。
 標津(しべつ)は快晴だった。これまで数回標津を訪れたが、いつも冬季だったために、しばしば風雪に旅程を崩されてきた。こんな穏やかな標津に出会ったことはない。
 標津にやってきた目的は、現在発掘調査中の現場を視察するためである。担当の椙田さんからは、毎年夏になると調査指導を依頼されるのだが、スケジュールの調整に苦労し、断念せざるをえなかった。その結果、訪問は年に一度の厳冬期となり、そこでボーディング中止の憂き目にあってきたのである。こういう経緯もあって、今年は気候の穏やかなうちに、なんとか一度現場をみておこうと決心した。
 標津町は4年前から、標津遺跡群(国指定史跡)と標津湿原(国指定天然記念物)の複合遺産である「ポー川史跡自然公園」の再整備計画を進めてきた。初期の整備は昭和50年代の後半におこなわれたのだが、復元建物や湿原上の遊歩道(橋)の劣化が著しく、また博物館機能の強化も求められてきた。今年は、湿原と接しあう伊茶仁カリカリウス遺跡内でトレンチ調査がおこなわれている。

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 空港から目的地に至る途中、遺跡群の飛び地となっている古道(ふるどう)遺跡と三本木遺跡を訪れた。今年度、遺跡の説明板を設置する予定になっていて、すでに実施設計図も完成している。古道遺跡は、市街地から最も遠く、広葉樹林の中にある。ところどころの地形がおおきく窪んでいて、それらはすべて竪穴住居の跡である。樹林の地面は笹で覆われている。窪んだ竪穴住居跡もまた笹で埋め尽くされているが、凹み自体はよくわかる。日当たりの良い場所には蕗が群生している。北海道の蕗は雨傘に使えるほど大きい。蕗の茎はもちろん食用にする。何度か食べた経験もある。不味くはないけれど、なかなか豪快な食感で、本州のキャラ蕗に馴染んでいるわれわれには大味に感じてしまう。
 蕗はヒグマの好物でもある。古道遺跡の樹林にも、よく熊があらわれるらしい。というような話をしていたら、ざわざわという音がした。振り向くと、ヒグマが立っている。
 というのは真っ赤な嘘で、エゾシカが木陰から遠くに走り去っていった。

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↑↑古道遺跡の窪み(大型の円形竪穴住居跡) ↑古道遺跡の蕗 ↓ヒグマが食べた蕗(カリカリウス遺跡)
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 今日は一日、熊の影におののいていた。カリカリウス遺跡で規則正しく並ぶトレンチの近くに葉っぱのない蕗の茎が数本立っている場所があった。熊が葉っぱをもいで食べた跡だという。椙田さんは、カリカリウス樹林の奥に進むにつれ、パンッパンッと手を叩き始めた。
  「お知らせしないとね・・・」
 ふだん発掘調査をしている時は、作業員さんが10人ほどいるから、かりに熊があらわれたとしても、集団防御の態勢に入ることができる。熊だって、多勢に無勢ということは分かるはずだ。しかし、今日は二人だけだから、もしも熊に遭遇したら大変だ。熊は時速60kmのスピードで走るのだという。この俊敏性でサケやシカを捕らえるのだ。われわれが敵うはずはない。危険を回避するため、奥のほうのトレンチに行くのはやめることにした。
 熊とともに蚊も大敵だ。大きな蚊に顔面をねらわれた。額とうなじを数ヶ所刺され、手のひらも咬まれてしまった。蚊については、持論がある。
  「不思議なんですよね、東南アジアに行って短パン半袖の生活をしていても、蚊に咬まれない。ところが、夏の日本はひどいでしょ。庭に洗濯物を干しにでるだけで、何ヶ所も刺されてしまう。日本で屋外カフェが流行らないのは蚊のせいですよ。でも、いちばんひどいのはアムール(黒龍江)流域でしてね。冬は零下30℃にもなって冷えるのに、8月は暑くて、昼間の最高気温は30℃を越える。蚊の多さと言ったら日本どころじゃないんです。川の中州になんか行くと、イナゴの大群みたいにして襲ってくる。だから、思うんですね、蚊は熱帯起源なのかもしれないけれども、寒冷地域の夏に集中発生するんじゃないかって・・・」
  「標津もそうですよ。今年の8月はすごく暑くて、現場行くときは必ず(熊除けの)鈴と蚊取り線香を腰にぶらさげていくんです。それに、標津の蚊は大きくてね」と椙田さんは答えた。
 ほんとに大きな、ガガンボのような蚊であった。
 
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↑カリカリウス遺跡の発掘トレンチ。縄文時代の竪穴住居跡が2~3期検出されている。 ↓遺物を保護する箕をめくると大量のアマガエルがいた。トレンチに落ちたカエルは地上に戻れない。
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 北海道に弥生文化は存在しない。稲作は東北地方の北辺まで達したが、北海道までは及ばなかった。北海道で縄文文化に続くのは「続縄文文化」である。つぎに「擦文文化」の段階に入る。本州の奈良~室町時代が北海道では擦文文化の時代である。そして、近世アイヌ期が続く。換言するならば、擦文文化の担い手が近世アイヌの祖先ということになる。
 北海道のほぼ全域に擦文文化が展開していたころ、道東・道北の海岸線や離島に北方から海獣狩猟民が大挙して流れついてきた。「オホーツ文化」の担い手である。司馬遼太郎はオホーツク文化の担い手を、日本書紀にみえる「粛慎(みしはせ)」ではないか、と推量した。一方、中国の後漢書東夷伝には「粛慎(しゅくしん)」という古民族名がみえる。粛慎(しゅくしん)は渤海の前身の前身の前身たる集団であった。粛慎→挹婁→勿吉→靺鞨と民族集団の名が変わり、それは国家としての渤海に統合される。日本の粛慎(みしはせ)と中国の東夷としての粛慎(しゅくしん)は、おそらく別の集団ではあろうが、地理的にみると、なんとも思わせぶりな関係にみえるから悩ましい。
 擦文文化とオホーツク文化はしばしば衝突を繰り返した。と同時に、両者は文化的に影響を及ぼしあった。そして、擦文化したオホーツク文化が誕生する。これを「トビニタイ文化」と呼ぶ。オホーツク文化の要素は、トビニタイ化することによって擦文文化に融け込み、それは近世アイヌに受け継がれていくとわたしは思っている。

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 ポー川史跡自然公園の一角には、トビニタイ文化の住居が2棟復元されている。昭和58年、椙田さんが中心となっておこなった復元事業である。オホーツク文化系の住居跡は独特の形をしている。典型的な竪穴は亀甲のような六角形をしているのだが、妻側のうち片方は鋭角的に突出し、他方は鈍角的で直線に近く、あまり外側に飛び出さない。トビニタイになると、一方が直線になって、全体が五角形平面を呈するものも少なくない。わたしは、こういうおかしな六角形平面を「舟」の形だと思っている。突出度合いの強い側が舳先(へさき)、その反対側にあって出の短い側が艫(とも)を表現するものだと思うのである。海の彼方から海獣を捕獲しつつ樺太・千島・北海道に流れ着いた漁民たちの乗った舟は、かれらの「家」でもあり、それが竪穴住居の形に投影しているように思われるのである。文化的な系譜関係はまったくないけれども、発生要因のレベルでみるならば、オホーツク文化の竪穴住居形状とインドネシアやオセアニアの海洋民住居に卓越する「船形屋根」は、その感覚の根源に「舟」を共有している。

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 ところで、オホーツク文化系の遺跡でも焼失住居跡が少なからず出土してきた。しかし、縄文、弥生、擦文の焼失住居跡とは違い、オホーツク系のそれは土屋根に復元しえない。壁と屋根には白樺の樹皮を用いたことがあきらかになっている(ポー川歴史公園の復元住居では、メインテナンスの関係上、マカバの樹皮を葺いている)。竪穴は非常に深く、床面にはコ字形に床板を敷く。「舳先」と「艫」の部分に棟持柱を立ち上げるのは、あるいはマストの表現であるのかもしれない。
 カリカリウスの樹林は、どこに行っても、窪みが無数に散在している。はじめに述べたように、それは埋まり切らない竪穴住居の痕跡である。笹に覆われた窪みをみていても形状はわかりにくいが、亀甲形に近ければオホーツク系、円形ならば縄文~続縄文、正方形に近ければ擦文と判断して間違いはない。今回のトレンチ調査でも、部分的に竪穴住居が顔をみせていた。それらは円形平面をしていた。縄文中期末から後期ころの遺構であるという。(続) 


  1. 2006/09/30(土) 20:47:46|
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