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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

神護再訪

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 神護に行ってきた。
 じつは、さきほどまで大騒ぎしていた。ふだん使わないニコンのデジカメで撮影したばかりに、データ転送で初歩的なミスを犯してしまい、すべてのデータが消えてしまったのである。神護は「写真を撮るな!」とわたしに訴えているのかもしれない。
 騒動を落ち着かせたのは岡野だった。データを復原してみせたのだ。キム・ドク(別名タイガー戸口)から教えられた復元ソフトを知っていて、
  「あんまり使ったことなくて、じつはそんなに役に立ったためしはないんですが・・・」
と呟きながら、みごと全データを回復させた。日野の大遅刻を補ってあまりある功績である。恐れ入りました。

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 神護の開発ぶりには目をみはった。
 かつては鳥取県の「ミニ白川郷」とさえ評価された茅葺き民家集落で、大規模な土木工事が進んでいる。その工事も終わりに近づいてきた。
 鳥取環境大学に着任した2001年4月1日の翌日から、わたしは神護に足を運んでいた。茅葺き民家古材のリサイクルによって学長公舎を建設しようというプロジェクトが進んでおり、わたしはその委員会の「委員長」という大役をおおせつかっていた。古民家は県の担当者とともに探しあてたものだ。

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↑2006 ↓2001
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 大学着任の半年前、県の担当者は国府町の拾石(じっこく)という集落に目をつけていた。かれは殿ダム建設によって撤去される予定の古民家があるという情報を聞き及んでおり、委員会のメンバー全員で拾石を訪れたのだが、すでに民家は消え失せていた。1棟の民家がなくなっていたのではない。集落がまるごと削り取られていた。村がまるごとダムに沈むから、住民は別の敷地に建設された集合住宅に集団移住していたのである。
 拾石に向かう県道を離れて、神護川に沿って上流へ向かうくと、神護という山間集落に突き当たった。そこで、明治30年に建てられたという茅葺き民家が廃屋になっているのを発見した。県は、しばらく時間をかけて、廃屋の所有者と交渉を続けた。まもなく所有者は解体移築を快諾され、その民家の解体作業が大学着任の翌日から始まったのである。

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↑2006 ↓2001
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 神護には、解体する民家のほかに6棟の茅葺き民家が残っていた。その6棟は神護川の両岸に集中していて、ほんとうに「ミニ白川郷」のような景観を形づくっていた。わたしたちはその景観に魅入られた。集落に来て解体現場から見下ろす集落の風景に抱き込まれていったのである。2001年4月の段階で、6棟のうち5棟が茅を露出していた。まもなく最も上流にある1棟に茶色の鉄板が被された。それは、状況の暗転を暗示していた。
 残された茅露出の民家は、いずれも18世紀後期~19世紀初頭の建築と推定され、文化財的価値は高く、景観資源としても、おそらく県内有数の価値をもつものであった。ところが、南岸側の2棟がまもなく取り壊されるのだという。
 取り壊されるという情報そのものにも驚いたが、その理由にはさらに驚かされた。洪水にともなう土砂災害を防ぐために、神護川を付け替える計画なのだが、その新しい水路が2棟の古民家を貫くようになっている。ところが、神護川は昭和50年代に3面張りの大改修をおこない、すでに「砂防指定」を受けていた。防災能力を保証された水路を付け替える必然性はどこにもない。それから、恐ろしい保存運動に巻き込まれていった。
 知らないのは、わたしたちだけだった。神護と殿ダムの愛憎半ばする長い関係の歴史。それは、開発にともなう不動産賠償として収束の方向に向かいつつあった。そこに、わたしたちが割り込んでしまった。
 ただ一人、わたしたちの側にたって調査に協力し、メディアに発言してくださるご夫婦がいた。奥様の実家は拾石にあった。彼女は実家がダム建設のために姿を消したことに涙していた。しかも、そのご夫婦は北岸側の茅葺き民家に住んでいた。その民家に住むご夫婦からお話を聞くたびに、あるいは住民との交渉で罵倒を浴びせられるたびに、開発の背景にある仕組まれた黒い部分が少しずつ浮かび上がってきた。ときに、「暗殺されるかもしれない」と思ったことさえある。上から下までグルでなければ、これだけのことができるはずはない。しかし、だれも、この暗い部分をおもてに出そうとはしなかった。県庁の県政記者クラブに乗り込んで記者発表し、いくつかの情報を提供したのだが、どの新聞もその事実を活字にすることはなかった。

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↑神護M家の火棚(加藤家で復原した火棚のモデル)↓神護M家の自在鉤(鉤が鉄製で加藤家よりも新しい)
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 保存運動は失敗に終わった。それは、完敗に近い結果であった。わたしたちが救おうとした2棟の古民家は撤去されて大きな新しい水路が開削され、わたしたちに唯一協力してくださった北岸側のご夫婦の家も、あれだけ愛着をもっていらっしゃった茅葺き屋根を捨てて、瓦葺きの2階建に変身してしまった。
 しかし、わたしたちの保存運動の影響がなかったわけではない。どの茅葺き民家なのか知らないが、古材が保管されていて、その古材を使って新しい公民館のような施設が竣工していた。率直な意見を述べるならば、民家の「復原」として合格点を与えられるものではない。取り壊された2棟は下屋のない葺き下ろしの茅葺き民家であった。ところが、今回の「移築民家」には瓦葺きの下屋がついている。もちろん下屋がついている民家もたくさんあるから、それはそれで良いのだが、茅葺き屋根と下屋の位置関係がよろしくない。まるで禅宗様の裳階(もこし)のように、通し柱の途中の部分に下屋がくっついている。これでは、茅葺き屋根と下屋の間に隙間ができてしまう。一般的には、茅葺き屋根の軒先部分を切り取って、下屋のみ瓦葺きに替えるから、茅葺き屋根と下屋の瓦は接しているのである。上屋(茅葺き)と下屋(瓦葺き)の関係は、「裳階」風ではなく、「しころ葺き」風でなければならない。ここを修正すれば、この「公民館」風建物も神護伝統の茅葺き民家に近づけるであろう。

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↑神護「公民館」風建物 ↓手打ち蕎麦「門や」(神護ではありません)
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 わたしたちは、2棟の古民家を保存するにあたって、1棟はセミナーハウス、もう1棟は蕎麦道場のような施設へコンバージョンしたら良いだろう、と提案した。これはわたしたちに協力的であったご夫妻のご希望でもあった。
  「神護川に水車を復元して蕎麦粉を挽いてですな、その粉で蕎麦を打つ。それを民家で提供したらええんじゃないでしょうか。」
 いいアイデアだと思った。ある特定の山間集落に対して、ここまで多額の税金をつぎ込んで大がかりな公共事業を継続してきたのだから、水車の一つや二つ復元するのはたやすいことだろう。公民館に近い川沿いに水車を復元して、蕎麦粉を挽いたらいいんじゃないか。
 そのそば粉をどうするかって?
 成器小学校の隣にできた手打ち蕎麦「門や(もんや)」に供給すればいいじゃないか。「門や」は茅葺き民家のコンバージョン蕎麦屋さんである。今日は、神護からの帰りに「門や」に寄ったのだが、すでに蕎麦は完売でたべられなかった。駐車場で、女将さんは平謝りに謝ってくださった。そこで、わたしたちは旧成器小学校舎内の喫茶室「アトリエ」に移動した。現在、成器小学校校舎は殿ダム関係の工事事務所として使われているが、一部はギャラリーおよび喫茶室として公開されている。
 小学生机をテーブルにして、ホットケーキを食べ珈琲を飲んだら、とりあえず小腹がおさまった。

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  1. 2006/10/11(水) 23:15:02|
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