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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

円錐形テントと竪穴住居 -縄文建築論(Ⅰ)

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 狩猟採集民の住居として知られる円錐形テントと竪穴住居には、かなり明確な地理的分布の差異がみとめられ、それは双方の担い手の生業のあり方と密接に相関している。円錐形テントは北方ユーラシアおよび北米大陸の内陸山間地域で狩猟に従事した民族が普遍的に利用した住まいであり、一方、竪穴住居は環北太平洋域の沿岸および大河川流域に卓越し、漁労および海獣狩猟と深く結びついている。
 漁労には捕獲の安定性がある。あくまで狩猟と比べればの話だが、一定の収穫が期待できる生業であるといっていい。2002年の夏、ビキン川中流域のツングース系狩猟民ウデヘ族の集落調査をおこなった際、二人の猟師とともに川を遡り、猟場に2泊した経験がある。わたしたちの目的は、古い居住形態を残す猟場の建築を調査することだったが、猟師の目的はもちろん狩猟である。大型のシカをかれらは狙っていた。わたしたちは舟でビキン川の支流をあちこち移動した。岸辺のところどころにシカの足跡を確認できたが、とうとう2日間シカは姿をあらわさなかった。猟師たちは夕方近くになると、川の淀みに網を張りはじめた。狩猟活動を終えたころ、いちど漁場に戻って網を引き上げ、一定量の魚を獲る。それは、その日の夕食になる。網は再び水面に沈ませる。翌朝、網を引き上げるとまた魚が捕まっている。毎日、狩猟にエネルギーと時間を費やす一方で、合間を縫って網漁をしているわけだが、日々の食生活を支えているのは漁獲物なのである。

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↑↑ツングース系狩猟民ウデヘの漁労活動 ↑ツングース系漁労民ウリチの冬葉作り ↓ツングース系漁労民ホジェン(ナナイ)の竪穴住居。遠くに黒龍江がみえる。
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 漁のための網がいつごろ発明され、日本を含む極東の漁労民にいつ波及したのか、よく知らない。しかし、たとえ網がなくとも、魚は獣より捕らえやすい。だから、漁労に重きをおく人びとは河川流域に定着性の高い住居を構える傾向がみとめられる。周辺に豊かな落葉広葉樹林があれば、そこでナッツ類やキノコなども採集できる。こうなれば人びとの定住性はさらに高まる。そういう人びとの住まいが竪穴住居であった。日本列島では、縄文時代にこういう生活が始まった。
 一方、大河川流域から離れた内陸の山間地域に住む人びとはテントに住むしかなかった。くりかえすけれども、狩猟は収穫の安定性が低い。獣はどこにいるのか分かりにくいし、その姿を視界にとらえたとしても、必ずしも捕獲できるわけではない。獣は動き、猟師も動く。獲物を得るために、猟師は山間部をひっきりなしに移動する。わたしが実見した例をあげると、中国黒龍江省興安嶺に住むオロチョン族(ツングース系エヴェンキの一派)の人びとは、すでに定住化していたけれども、狩猟の際には今でも三脚構造の円錐形テント「仙人柱」を建てて猟場を動きまわっている。白樺もしくは柳の樹を先端にY字状の股木を残して切り倒し、まず3本の股木をかみ合わせ堅牢な三脚構造を作る。あとは数本の垂木を円形に並べるだけですべての骨組ができあがり、それに布を巻き付ければテントが完成する。建設に必要な時間は15分程度である。ただし、夏と冬でテントの構造が若干変わる。夏は長さ4mほどの垂木を用いて急勾配の屋根をたちあげ、白樺の樹皮で編んだマットで骨組を覆うのだが、天窓部分はひろくあけておく。そして、炉は屋外に設ける。冬になると、垂木の長さは3m前後と短くなって、勾配が緩くなり、ノロ鹿の毛皮を骨組に巻き付ける。天窓は小さくなり、炉は屋内に設けられる。

 というわけで、
   狩猟=テント=遊動/漁労=竪穴住居=定住
というありきたりの対立性を示しうるわけだが、その一方で、テントと竪穴住居の建築構造はあきらかに同一系統であり、竪穴住居はテントの内部に穴を掘って外部を固めたものと理解できるであろう。

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 それでは、なぜテントは竪穴化しなければならなかったのか。それは、人びとが定着性の高い生活を送るにあたって、住まいの内部空間を大きくする必要に迫られたからである。サスや垂木のような斜材しか知らなかった人びとが、木構造の垂直壁を考案して、その上側にテントを持ち上げる技術を開発するには、もう少し時間が必要だった。地面から上の空間を大きくすることはやっかいだが、穴を掘るだけでテントに覆われた空間は自ずとひろくなる。掘りあげた土を樹皮や毛皮の屋根にかぶせれば、外気と内部の遮蔽性は高まり、寒暑を避ける機能も高くなる。ただし、土を被せるからには、垂木の傾斜を緩くしないと土がずりおちてしまうし、場合によっては、下から柱で支えないと屋根そのものが崩れおちてしまう。こうして、急傾斜の屋根をもつテントの構造が少しずつ変形していったのだろうが、竪穴住居がどのように進化しようとも、原初形としてのテント構造が失われることはなかった。竪穴住居どころか、テントの構造はアイヌ住居(チセ)のケツンニ(三脚)構造や、近世民家のサス構造にさえ残像をとどめている。
 新石器時代の始まりと同時に、テントから竪穴住居へ居住施設が転換すると言われる。遊動する旧石器時代人が新石器時代になって定住し始めることによって、竪穴住居が生まれるというのが常識的な理解であろう。「定住」という指標でみる限り、竪穴住居と土器はほぼ等価の意味をもっているのである。ところが、後期旧石器時代の東欧には、マンモスに代表される大型獣の獣骨を骨組とする竪穴住居が卓越していた。しかも、それは複数の炉をもつロングハウスとしての竪穴住居である。ウクライナやスロバキアを中心にして、バイカル湖周辺にまでひろがる後期旧石器時代の東欧型竪穴ロングハウスは、マンモスなどの大型獣をおう旧石器時代人の定住性を示す証拠であると言ってよいのではないか。

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 しかし、日本の後期旧石器時代にこういう大型の竪穴住居はみつかっていない。いまわずかに騒然としているのは、鹿児島県指宿市の水迫遺跡で後期旧石器時代の終盤にあたる15000年前ころの竪穴住居風遺構がいくつかみつかっていることだが、これについては「地形の窪みにすぎない」という強烈な批判も発表されている。日本の旧石器時代においては、未だ「住居跡」と呼べる確実な遺構が発見されていないのである。群馬県の下触牛伏遺跡に代表されるように、日本の後期旧石器時代においては、石器破片の集中する「遺物集中区」が円環状にならぶ遺跡があって、テントか風避け程度の仮設建物の前方で石器を製作していた可能性が高いとされる。この場合も、「遺物集中区」の周辺には「建物跡」らしい遺構はまったくみつかっていないので、厳密にいうならば、仮設の住居群が環状に配列していたのかどうかも分からないのである。
 旧石器時代のテントから新石器時代の竪穴への変貌というプロセスを考古学的に知る上で、シベリアの例が非常に参考になる。後期旧石器時代の終末期にあたる細石器文化では、円形平面の縁石を配し中央に石囲炉をおく平地住居跡が確認されているのに対して、カムチャッカ半島新石器時代最初期(約1万年前)のウシュキ遺跡では、浅く掘りくぼめた竪穴住居が4棟みつかっている。これらの浅い竪穴住居は門道を備え、屋内中央外よりに石囲炉を備えている。テント式の平地住居が床を下げ始めた萌芽期の住まいと認識して間違いなかろう。日本の場合、シベリアのような住居変化を細石器段階→新石器時代初頭(縄文草創期)において明瞭に看取できるわけではなかろうが、たとえば鹿児島国分市の上野原遺跡でみられる縄文早期の竪穴住居のように、主柱の内側に竪穴を有する住居形式はテント式の平地住居が床面を下げ始めた状況を示すもののようにも思われる。このほか、縄文~弥生にかけて3本主柱をもつ円形の竪穴住居もしばしば出土しているが、これはオロチョンの「仙人柱」にみるように、円形テントの骨格としての三脚を支える柱の痕跡とみなすべきものであり、やはりテントと竪穴住居の相関性を示唆するものと言えるだろう。(続)

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 ↑上野原遺跡の竪穴住居跡(縄文早期)



  1. 2006/10/23(月) 00:26:54|
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