
先週の
IH鍋に続き、今週は炊飯器を買うというので、別の電気店についていくことになった。その電気店の3階に100均ショップがあり、わたしは妻子から離れて一人3階に上がり、ボールペンを買いあさった。なぜかと言うと、わたしはいつでもどこでもペンを探しまくっているからだ。とくにひどいのが教授室。電話がかかってきてメモをとろうとしてもペンがない。会議にもっていことうしても、やはりまともな筆記具がみあたらない。昨日まではあったはずのボールペンやシャープペンが、必ずどこかに消えてしまっている。使ったら使ったきりで、どこにおいたか覚えていないのだ。
そんな苦況にしょっちゅう遭遇するので、身のまわりに大量の筆記具をひそませておく必要がある。奈良自宅の1階と2階、田園町宿舎の1階と2階、そして教授室。あちこちに予備のボールペンをおいておかないと、ほんとうに筆記具がまったくみあたらない状態に陥ってしまうのである。だから、100円で10本の黒いボールペンほか2色ボールペン、3色ボールペン、シャープペンなどをドカドカ買った。なんでも100円だと思うと、ほんとうに気楽に買い物かごにいれてしまう。100均の罠にまんまとはまってしまった。レジに行って決算したら、請求は1890円なり。阿呆としかいいようがない。
まったくヘルプレスだ、救いようがない、と自己嫌悪にさいなまれつつ、レジで領収書を切ってもらい、その領収書にフルネームを署名してくれた沙也夏さんという店員は綺麗なひとだったな、きっと若い奥さんなんだろうな、なんて馬鹿な妄想を覚えながら、店内を通って帰ろうとしていたのだが、今度はCDを見つけてしまった。100均ショップなのに、CDは200円の値札がついている。これは違法行為ではないのか。あれっ、結構ジャズのアルバムが並んでいる。「永遠のジャズピアニスト」なるシリーズは悪くないぞ。セロニアス・モンクとバド・パウエルか。なんたって1週間前、
再結成イーグルスの安売りライブCDをみつけたばかりに、made in ChinaのCDラジカセまでも買ってしまったわけだが、CDが1枚きりというのは情けない。したがって、100均ショップにおいて200円のCDを2枚買うのも致し方なかろう、・・・トホホ。
というわけで、今日はモンクを聞きながらブログを書いている。

それから一路、海住山寺をめざした。昨日(28日)から11月5日まで文化財特別公開「国宝五重塔開扉」だというので、あの急峻な山道を
ワゴンRで駆け上がっていった。
ここは恭仁(くに)の都である。天平十二年(740)、聖武天皇は
平城京を捨てて恭仁京へ遷都する詔を発した。翌年正月、天皇はこの地で群臣の朝賀をうけるが、まもなく都は難波(なにわ)から紫香楽(しがらき)へと変転したあげく、5年後、平城に還都(かんと)してしまう。そういう儚い運命をもつ都を一望できる海住山の中腹にこの寺は境内を構えている。
創建は恭仁京遷都をさかのぼる天平七年(735)と伝える。東大寺大仏造立工事の平安を祈願し、聖武天皇は良弁(ろうべん)僧正に命じてこの山に堂宇を建立させ、十一面観世音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけた。しかし保延三年(1137)、火災により境内は灰燼に帰し、寺観のことごとくを失った。
これを復興したのは、笠置寺に寓していた解脱上人であった。その解脱僧は貞慶(じょうけい)と云い、承元二年(1208)、観音寺の廃墟に居を遷して草庵をいとなみ、補陀洛山海住山寺と改名した。 貞慶は藤原貴族の息子であったが、幼くして興福寺に入り、海住山寺に寓居後も興福寺の山内に常喜院を設けて律学の道場とした。ここから西大寺の叡尊や唐招提寺の覚盛など、鎌倉時代の南都仏教を担う高僧が輩出された。
その鎌倉時代の遺構が境内に2棟残っている。文殊堂(重文、1312年建立)と五重塔(国宝、1214年建立)である。五重塔は貞慶の弟子にあたる慈心上人覚真が、建保二年に貞慶の一周忌供養に建立したもので、屋外にある五重塔(国指定物件)では室生寺五重塔に次いで2番目に小さい。また、
裳階(もこし)をもつ五重塔は法隆寺と海住山寺だけということにもなっている。ただし、海住山寺五重塔の裳階は、昭和38年(1962)の修理後に復元されたものである。縁に上って裳階の部材を眺めると、柱だけでなく、梁にも垂木にも肘木にも面取されていて、
平等院鳳凰堂の裳階を思い出させるけれども、この小さな塔の裳階はそういう類例を参考にして復元されたものなのである。

↑面取材で構成される裳階の部材 ↓二手先組物

「尾垂木をともなう二手先(ふたてさき)」。こういう比較的珍しい組物をもつ点でも、この塔はよく知られている。鎌倉時代の二手先である。日本古代の仏教建築に二手先の遺構は存在しない。東大寺法華堂に出組があって、他の大きな仏堂や塔はほとんどすべてが
三手先(みてさき)になっている。これは三手先がたんなる軒の飾りではなく、構造的にトラスのような役割を果たしていることと無縁ではなかろう、というのが近年の理解である。ただ、その盲点をつくかのような図像表現が西安に残っている。慈恩寺大雁塔マグサ石に線刻された唐代の仏堂図には、二手先の組物が鮮明に描かれているのである。これを
平城宮第一次大極殿院の閤門の復元で応用したことがあるのだが、三手先で綺麗におさまる軒の隅が二手先ではこんがらがって、大変複雑になることがあきらかになった。しかし、あれはおもしろい実験であった。その成果を、どこか地方の国分寺の復元で勝手に使われてしまって、著作権侵害だとわめいたら、こんどは足下で事件が勃発した。平城宮内では、新参者の建築技師が勝手に閤門を二重門から平屋の門に替えてしまって、同時に、わたしたちが苦労して完成させた二手先の軒を放棄してしまったのである。あのとき古参のメンバーは一同呆れかえり、いくら修理現場で鍛えても、平城宮も知らなければ、都城も知らず、古代という時代の建築と出土遺構との関係も知らないで、よくもあれだけ嘘を描き並べられるものだと嘆息しながら、しかし復元とは所詮絵空事なんだから好きにさせればよいかと諦観しつつ、わたしは研究所を去っていった。
好んで去っていったのだから、もちろん文句を言える筋合いのものではない。ただ、この時期、職場は体制の変革期であった。新しいトップが前代の業績や手法を否定し、自分の好きなことをしようとするのだが、その決定プロセスが民主的でないため、所員の不満は募り、文化庁の担当官さえ新しいトップのやり方を是認しなかった。それは、いま身のまわりでおきている騒動とどこか似ている。
人びとに惜しまれつつトップの座を辞することは難しい。それは、また明日、『オシムの言葉』について触れる際に述べようと思っている。

↑↓本坊前庭の池のまわりに、
「せんりょう」と「まんりょう」が植えてあった。どちらがどちらなのか、わかりますか?
- 2006/10/29(日) 03:19:26|
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