1992年の春から夏にかけての4ヶ月間、北京にいた。日本学術振興会の特別研究員として、「中国早期建築の民族考古学的研究」に取り組んでいたのだが、実際はひまだった。受け入れ機関の中国社会科学院考古研究所の図書室に通って「内部資料」をあさるぐらいしかやることがない。ところが、その図書室が開いているのは午前2時間半、午後2時間半だけだった。
中国人は11時半になると、自転車に乗って自宅に帰り、自宅で昼食をとってからシエスタ(昼寝)し、職場に戻ってくる。午後2時に仕事が再開する。この2時間半の昼休憩時間に居場所がない。長安大街の人民飯店というホテルにまで戻るのもばかばかしいし、研究所の対面にある華僑大厦やホリデイ・インで昼食をとると、ものすごく貴くつく。だいたい王府井(ワンフーチン)の大衆食堂でラーメンを食べるのだが、ものの5分でたいらげてしまうので、あとはどうして時間をつぶしたらいいのか困ってしまう。昼寝をする場所もない。
自然に研究所から足が遠のいた。
それにしても、のんびりした時間をすごしていた。帰国すれば、こんなに緩やかな時の流れに身をおくことは一生ないだろう。そう思いながら、毎日、北京の時間を堪能していた。
楽しみはテレビのスポーツ観戦しかなかった。この年は
バルセロナ・オリンピックが開催され、たしか水泳の岩崎恭子と柔道の吉田秀彦が金メダルをとったのだが、日本勢の出来は惨憺たるものだった。よく覚えているのは、マラソン男子で銀メダルに輝いた森田が八頭校出身だったことである。
ところで、オリンピックの年はワールドカップの中間年だから、ヨーロッパ選手権が開催される。ヨーロッパ選手権はワールドカップよりもはるかにおもしろい。なぜなら、日本やチュニジアのような弱小国が出場しないからだ。ヨーロッパの強豪16ヶ国(92年までは8ヶ国)がいきなり予選から激突する。当然のことながら、どれもこれも凄い試合ばかりになる。
と、偉そうなことを言ってはみたが、わたしは92年の北京ではじめてヨーロッパ選手権をみた。今でこそヨーロッパ選手権は「ユーロ」という愛称とともに、日本でもよく知られるようになり、WOWOWが全試合を放映してくれるが、Jリーグ開幕前の日本で、ヨーロッパ選手権が生放送されるなどということはありえなかった。
ところが同じころ、中国ではヨーロッパ選手権が地上波で放映されていた。この国の人民は、サッカーを深く愛している。レベルの高いサッカーを観戦することを好んでいる。深夜に放送されるユーロの生中継をみて翌日は睡眠不足。話題はサッカーのことばかり。国民全体がそういう生活を送っている。そういえば、当時から、地上波でセリエAの試合も放送していた。
「おまえも球迷(チウミイ)だね」
とよく言われたものだ。「球迷」とは「サッカー狂い」ということである。「球」とはボールのことだから、あらゆる球技の総称かに思えるが、否、そうではない。ボールとはサッカーボールのことであり、球技とはサッカーのことなのである、中国においては。
中国人はオリンピックで大量の金メダルをとることに誇りを感じているが、サッカーが弱く、オリンピックにもワールドカップにも稀にしか出場できないことに劣等感を覚えている。しかも、後者が前者を上回っていると言って、おそらく間違いない。この年の夏、北京工人体育場で開かれたダイナスティ・カップで、中国はホームであるにも拘わらず、日本に0-2で完敗を喫した。わたしはスタジアムで大喜びしていたが、中国人は敗北を恥じて、中国代表チームにブーイングを浴びせ続けた。しかし、
2004アジア杯のように、その鬱憤の矛先を日本代表チームに向けるようなことはなかった。6万の大観衆は強い日本代表に驚き、日本代表に拍手を送ってくれた。
オフト監督就任後の日本は強かった。システムは4-4-2。GK松永、2ストッパーは井原と柱谷、右SB堀池、左SB勝矢(都波は負傷中)、中盤はボランチが森保と吉田、攻撃がラモス(福田)と北沢、2トップがカズと高木(中山)。後に「ドーハの悲劇」を体験するイレブンの初陣が、北京のダイナスティカップであった。わたしは、この時代の日本代表がいちばん個性的で、魅力あふれるチームであったと今も確信している。
ヨーロッパ選手権の優勝候補はオランダであった。なかでもボランチのフランク・ライカールト(現バルセロナ監督)は絶好調。ライカールトはワールドカップになると、いつも調子を崩してファンを落胆させたが、ミランやアヤックスやユーロでの仕事は瞠目すべきものであり、もともとボランチ好きのわたしにとって、当時、これ以上お気に入りの選手はいなかった。92年のユーロでは、まさに大会MVPに匹敵する大活躍。守備的な選手であるにも拘わらず、毎試合のように点をとって勝利に貢献した。フリットよりも、ファン・バステンよりもライカールトが輝いた大会であった。グループリーグでは
因縁のドイツと再戦、3-1で圧勝し、90年W杯の仇をとった。良いサッカーをするチームが勝利するのを見るのは本当に幸せなことだ。
しかし、優勝したのはデンマークだった。ブライアン・ラウドルップの蛇行する快足ドリブルには驚かされた。だれもラウドルップをとめられない。準決勝でオランダと対戦し、2-2で引き分けたのだが、PK戦(5-4)で勝利し、そのままとんだダークホースがユーロ92を制してしまったのである。
なぜ、「とんだダークホース」などという表現を使うのか、と言えば、デンマークは補欠でこの大会に出場したからだ。出場資格をもっていたのは、ユーゴスラビアであった。もちろんキャプテンは
ドラガン・ストイコビッチ。91年のトヨタ・カップを制したレッドスター・ベオグラードの選手がほぼまるまる代表チームを構成するそのチームの強さは、オランダ代表をも上回っていた可能性がある。
このヨーロッパ最強とも讃えられたユーゴスラビア代表の監督がイビチャ・オシムであった。90年のワールドカップでは、準々決勝でマラドーナのアルゼンチンにPK戦で敗れたものの、サッカーそのものの質ではアルゼンチンを凌駕し、背番号10のエース対決もストイコビッチに軍配を上げる評論家が多かった。実際、90年のイタリア大会をつまらなくしたのはアルゼンチンだった。攻め手といえば、
マラドーナからカニーヒャへのスルーパスしかない南米のチームは、守備的な戦術と汚いファウルで決勝まで勝ち進んでしまった。決勝トーナメントの1回戦でブラジルが下馬評どおり、アルゼンチンを粉砕していてくれたなら、つまり無数にあった得点チャンスを2回だけモノにしていてくれたなら、ブラジル対ユーゴ、ブラジル対イタリア、ユーゴ対イタリア、イタリア対ドイツなどの名勝負がみられたものを、サッカーファンの夢を老衰したマラドーナが打ち砕いてしまった。イタリアW杯のマラドーナはすでに美しさを失っていた。
ワールドカップが終わって、オシムは代表監督の契約を更新するばかりか、パルチザン・ベオグラードというチームの監督にも就任する。日本で言えば、代表監督と千葉の監督を兼務するようなものだ。
レッドスターとパルチザンは、ともにベオグラードを本拠地とするチームで、喩えるならACミランとインテル・ミラノのような関係にあるライバルチームである。いや、この比喩はよくない。ミランとインテルはともに大勢のスター選手を抱えるビッグクラブだが、ユーゴにあっては、たしかにレッドスターは名門中の名門で、大勢の代表選手を抱えていたけれども、もとは人民軍のクラブであったパルチザンはメンバーにおいてやや見劣りがする。オシムはいつでも、そういうスター選手の少ないチーム、あるいはあまり強くないチームの監督につきたがる。
レッドスターとパルチザンの戦う試合は、当然のことながら、べオグラードのダービーマッチであり、町中がヒートアップする。オシムが監督に着任した90-91年のシーズン、リーグ戦ではレッドスターが首位を走っていたが、両者のダービーマッチの戦績をみるとパルチザンが1勝3分で勝ち越している。当時、欧州最強との評価が高かったACミランでさえ、レッドスターとのホーム&アウェー戦で勝ち越すのは至難の技だと恐れていた強豪チームに、監督就任1年目で勝ち越しているのである。理由はいくつもあるだろう。まず、オシムがパルチザンを強いチームにしたことは間違いない。他の試合とは違って、パルチザンの選手が目の色を変えて闘争心を剥きだしにするからかもしれない。しかし、『オシムの言葉』の著者、木村元彦氏が指摘しているように、レッドスターの選手たちがオシムの影に怯えて萎縮してしまったことが、なにより大きかったにちがいない。オシムはパルチザンの監督であると同時に、あしかけ5年も代表監督の座を務めていて、国内主要選手の特徴をすべて掌握しており、逆にレッドスターの代表選手たちは、オシムの凄みをよく知っている。自分たちの欠点をオシムがすべて洗い出し、いったいどんな手を使ってくるのか。そういう心理戦で、すでにレッドスターは敗れていたのであろう。
オシムの代表チームは連戦連勝を続けていた。レッドスターからマルセイユを経てベローナに移籍していたストイコビッチこそ怪我で不調をかこっていたが、ほかにもどれだけ凄い選手がいたのか、名前をあげればきりがない。サビチェビッチ、パンチェフ、プロシネツキ、ミハイロビッチ、ミヤトビッチ、ボバン、シューケル、ヤルニ、ボクシッチ・・・・。オシムという監督はこんなメンバーを率いて欧州選手権の予選を戦っていたのである。はっきり言って、デンマークが敵うはずはない。
しかし、運命は代表の崩壊に向けて加速していく。91年の6月にはクロアチアとスロベニアが独立宣言し、10月になるとボスニア・ヘルツェゴビナもこれに続く。そして、92年3月27日、ついにボスニアで戦争が始まった。以下は、『オシムの言葉』からの抜粋引用である。
4月4日、束の間の休日を故郷のサラエボで過ごしたオシムは高校3年生の息子を連れてベオグラードに戻るべく空港に到着した。空港は、セルビア系の住民でごったがえしており、オシムに不吉な予感を感じさせた。オシムは妻に対しても「ベオグラードに行こう」と誘ったのだが、妻はそれを断った。その2日後、「サラエボ包囲戦」が始まり、以後2年半のあいだ、夫婦は顔をあわせることがなかった。
5月21日、オシム率いるパルチザンはユーゴ杯の決勝でレッドスターを破り、優勝。その後の記者会見の発言。
「これでおしまいだ・・・わたしのサラエボが戦争にあるのに、サッカーなどやっていられない」
それはパルチザンと代表双方の監督を辞任する会見であった。
「辞任とは私が取り得る最終手段だ。わたしはユーロに行くことはない。・・・それが私がサラエボに対してできる唯一のこと。・・・私はサラエボの人間だ。サラエボで今、何がおこっているか、皆さんご存知だろう」
オシムを失ったユーゴ代表チームは、それでも28日、ユーロが開催されるスウェーデンに向けて飛び立った。しかし、ストックホルム空港に到着した代表チームは、強制帰国を命じられる。国連のユーゴ制裁を受け入れたFIFAとUEFAは、すべての国際試合からユーゴ代表を締め出すことを決定したのである。
『誇り -ドラガン・ストイコビッチの軌跡』によれば、ストックホルム空港のユーゴ代表チームに対する扱いは常識を超えてひどいものであったという。その状況に長時間直面したストイコビッチは、気持ちがわるくなってトイレに駆け込み、二度嘔吐している。(続)
- 2006/10/30(月) 05:11:38|
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