
あわただしい一日だった。
9時に学生2名が宿舎に迎えに来たとき、わたしはまだ眠っていた。講演の準備に手間取り、昨夜は2時半までパワーポイントを作っていて、まもなく床についたのだが、こういう作業の後ただちに眠りに落ちるはずもなく、木村元彦の文庫本
『誇り -ドラガン・ストイコビッチの軌跡』を読んでいたら、ブログ
「『オシムの言葉』に寄せて(Ⅰ)」の最後の部分に誤りのあることがわかった。92年5月末、ストックホルム空港に着いたユーゴスラビア代表チームは、そこで強制帰国させられたのではなく、いちど練習場に入っている。その直後に国連制裁が決定して、帰国命令を受けるのだが、ユーゴ側がチャーター便を用意してきたにも拘わらず、管制塔は給油もみとめず、離陸許可も出さない。代表チームは空港で何時間も待機させられるのである。嫌がらせ以外のなにものでもない。わたしはてっきり、そのときストイコビッチはまだベローナにいるものだと思っていたのだが、かれも、このストックホルムの空港で待機させられ、トイレで2度嘔吐している。
ストイコビッチが来日直後、なぜあれほど「切れやすい」選手だったのか、そして、あれだけの選手がどうして名古屋を離れなかったのか。それは「西欧」社会が、一人の繊細な天才サッカー選手を傷つけすぎたからだ・・・。それにしても、日本もおもしろい国ではないか。世界最強と讃えられた最後のユーゴ代表チームのキャプテンがこの国で長くプレーして引退し、その代表監督であった人物がいま日本代表の監督として自らのキャリアを締めくくろうとしている。

白兎海岸の、懐かしいコンビニで肉まんとおにぎりを仕入れ、
船屋の前にひろがる日本海を今日も眺めては感じ入っていた。倉吉に着いたのは10時半ころだったか。池田住研さんの事務所には、社長のほかに文化財課長も待っていた。珈琲を一杯いただき、工場に移動した。
原寸模型の出来は上々、若干の修正は依頼したが、完成まであとわずかのところまで来ている。楽しみはなんと言っても、杉板のトチを重ねる軒付だ。諸々の検討から、檜の
コアではなく、杉のトチを使うことになったのだが、いちばん下に水抜き道としてコアを2枚だけ敷くことにした。軒付が始まったら、もう一度見に行くしかない。
工場の近くに
クズマ遺跡がある。そのことを昨日、社長から教えられたものだから、課長に電話したところ、伝建ゼミ(京都)の最中であった。が、電話で話し合い、クズマ遺跡の見学が急遽決まった。キャベツ畑に囲まれた山裾にある弥生時代~7世紀の複合遺跡で、いちばんのお目当ては隅に門道をともなう竪穴住居(古墳時代後期)である。2本柱+壁際の1ピットがある下層遺構が分厚い貼床(2~3期)にパックされて4本柱に変わっている。平面は正方形に近い。門道にもその貼床はひろがっており、上層にともなうものである。隅に入口があるということは、隅木とか隅サスが使えないということで、どうして屋根を支えたのか、と言えば、いまのところケツンニぐらいしか頭に浮かばない。どこかで、この問題をクリアしなければ。
クズマには7世紀の礎石建物もみつかっている。たぶん梁間2間×桁行3間以上の平屋建物で、柱間寸法は4尺程度。礎石は小振りで平べったく、これは修復中の加藤家の束石にいいな、と思っていたら、「行政発掘なんで、記録をとったら、あとは持っていかれてもかまいませんよ」とのこと。文化財課長が言うのだから、大丈夫だろう(わたしゃ知りませんよ)。

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午後からは青谷町総合支所で
「楼観」の講演。会場は立ち見が出るほどではなかったが、とりあえず満員御礼かな。プロジェクターを2台用意して、一方はわたしのパワーポイント、もう一方はインターネット上の建築部材データベースを映しだし、「楼観」の復元とデータベースの基礎資料を対照させた。このプレゼンテーションは大正解であったと思う。講演の内容は、40%は記者発表時と同じだが、復元CGを大量に追加し、さらに「倭人伝にみる建築表現」を中国漢代の字書『爾雅』『釈名』等から考証した。「楼観」とはたんなる「高殿」ではなく、「物見櫓」に似た軍事施設としての高層建築とみなさざるをえないと思われる。最後に、7000点におよぶ建築材の整理・分析によって、弥生建築の「文法」が復元できる、と纏めたところ、マスコミの皆さんが食いついてきた。青谷では1棟や2棟の建物ではなく、複数の異なる掘立柱建物が復元できる。その成果を積み重ねれば、構造形式・木割・継手仕口などを体系的に復原できるだろう、という構想である。

元作業員さんには1本取られた。その方は屋根葺材は杉皮ではないか、と質問されたので、
「かつて中国貴州のトン族やミャオ族の住居建築を調査していたんですが、かれらの建築材はすべてスギ(広葉杉)で、屋根材も杉皮を使っていました。ただし、茅は妻木晩田で出土している一方、青谷で杉皮が出土したという情報を得ていませんもんで、茅を使いました」
と答えたら、
「わたしが発掘調査で作業しとった時には、ものすごい量の杉皮が出とったです」
と切り替えされてしまった。そういう情報を知らなかったのである。講演後、午前に現地説明会をおこなった発掘調査現場を視察すると、たしかに杉皮があちこちに散乱している。青谷に茅葺きの建物が存在しなかったはずはないだろうが、たしかに杉皮の建物も少なくなかったであろう。今後の復元に、是非とも取り入れたいと思った。
ところで、講演中、ホカノがよく寝ていた。昨夜は夕食を一緒に食べて、かれはそのまま帰宅して眠ったはずだから、わたしよりはるかに睡眠時間は長いはずだが、本人曰く「風邪気味で、鼻水が止まらない」んだそうである。真っ赤な顔をして、ほんとによく寝ていた。もう何も教えてやらないから。

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↑青谷上寺地遺跡発掘現場 ↓窓状製品と散乱する杉皮

少し時間があまったので、加藤家にも顔を出した。
公開の最終日。着いたら、午後4時をすぎていたが、鳥取大学農学部の学生さんがたくさん来ていて熱心に質問し、メモを取っている。しばらくすると、同じく鳥大の地域学部某講師もやってきた。あまり話はできなかったが、床下から出てきた古銭をそっとわたした。建物の年代推定に役立つ文物であり、考古学者にわたしておけば、きっとなんとかしてくれるだろうという邪な期待を寄せながら、わたしは加藤家を離れ、郡家駅から「スーパーはくと」に乗って大阪に向かった。
そして、午後9時すぎ、まる3日ぶりに患者と再開。患者は昨日から今日にかけて、なかなかおもしろい動きをみせている。それは明日、まとめて書き連ねよう。
今のところ、順調に快方に向かっている。少しのろけておくと、病を患って入院したおかげで、たまっていた疲労がとれ、余計な肉もとれて、患者はすこし美貌を取り戻した。側にいるだけで、とても楽しい。
遅ればせながら、
11日の「楼観」報道を一挙掲載します。






- 2006/11/18(土) 23:58:12|
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