
魏志倭人伝には、建築に係わる描写が三ヶ所みられる。
①屋室あり、 父母兄弟臥息処を異にす。
②租賦を収むに邸閣あり。
③居る処の宮室は楼観・城柵をおごそかに設け、・・・・・
18日の講演では、「屋室」「邸閣」「宮室」「楼観」について、おもに中国漢代の字書を参照しながら、その機能と構造について推察した。とりわけ、青谷の細長い柱材から復元された建物を、わたしは「楼観」であろう、と主張してきたので、ここに若干の説明を加えておきたい。なお、この考察については、日野開三郎、林巳奈男、田中淡ら諸先学の論考に負うところが大きい。
漢代初期以前の成立とされる字書『爾雅』の「釈宮」には「観謂之闕」(観のことを闕という)とあり、東晋の郭璞(かくはく)はこれに注して、「宮門の双闕である」としている。『春秋』経の定公二年には「雉門および両観災す」ともみえる。下って、後漢の劉煕が撰した『釈名』の釈宮室には、
闕、闕也。在門両傍、中央闕然為道也。・・・・観、観也。於上観望也。
(闕とは闕[欠く]の意である。門の両脇にあり、中央が闕然として道をなしている。・・・・観とは「観る」の意である。上から観望するのである。 )
と訓釈されている。
一方、楼については『爾雅』釈宮に、「台」に続く事物として取り上げられ、「狭脩曲曰楼」(狭くてながくL字形に曲がったものを楼という)ともみえる。田中淡氏の「先秦時代宮室建築序説」(『中国建築史の研究』1989)に従えば、「観」とは「闕」、すなわち現存の北京故宮午門(↑↓)と同様の構成のものがそれに相当すると考えられる。楼が宮殿の類ではなく軍事用望楼をも意味したことは、『釈名』が「楼は窓や扉の孔がまばらにあいたもの(楼謂窓戸之間有射孔、楼楼然也)」とするところからも推定される。軍事建築としての木楼・土楼の記述は、『墨子』備城篇などに多く見いだされるという。また、「楼」は折れ曲がった「台」の上に建てられた高層木造建築とみることができる。以上から、「楼観」とはコ字形平面をもつ城門=「闕」の「台」上にたつ木造建築で、とりわけ「観」とは左右前方に張り出した「両観」のことを意味するであろう。
この城門の構造がきわめて防御性の高いものであることはいうまでもない。物見櫓としての機能だけでなく、城門を攻める敵兵に対して攻撃しやすいシステムを具現したものとみることができる。

「これは、まぁ、中国でいうところの『楼観』やな」
西日本を訪れた漢代の中国人は、環濠や柵をともなう日本式の高層建築をみて、そう思ったに違いない。中国に古くから存在した「闕」としての「楼観」が弥生時代の日本に存在したはずはない。「宮室」や「邸閣」にしても、中国式の建築とはとても言えない。しかし、倭人は他の東夷と違って、穴蔵式の竪穴住居だけでなく、いちおう「屋室」(地上の建物)ももっている。そして、とても「闕」とは言えないが、門の脇にたつ高層建築もあるから、とりあえずは「楼観」という言葉でそれをあらわすしかない。それが、倭人伝にみえる「楼観」の実態であったとわたしは思う。
さて、弥生時代のある時期、倭は大きく戦乱で乱れていたというイメージが少し前まで学界を支配していたのだが、近年、それを否定する向きもあるようだ。そのよってたつ根拠をわたしはよく知らないけれども、中国漢代の字書から導かれる「楼観」のイメージは軍事性、防御性と直結している。今回復元した手すりをもつ高層建築は「物見櫓」であろうとわたしは思っている。くりかえすけれども、それは中国式の「楼観」構造を有しているわけではない。しかし、中国人が「楼観」と呼びたくなるような性格をもっていた可能性が高いのではないだろうか。
ところで、一部の報道を読むと、この柱の径が細すぎることから、高層建築説に懐疑を示すコメントもみられたが、細い柱を加工して高層建築を造る技術があったことをまず評価しなくてはならない。大工道具としての鉄器の普及と、杉の植林がその背景にはあったことだろう。また、この「楼観」は小振りのもので、たぶん10年も存続したものではなかろう。建設後しばらくして倒壊するか、解体され、護岸の補強材に柱が転用されたのではないか。そして、日本各地には、青谷より大きな「楼観」があちこちに存在したはずである。ただ、その存在をこれまで実証できなかった。
ともかく、勘違いしないでいただきたい。青谷の「楼観」が凄かったのではない。青谷の柱材が「楼観」の存在を実証しえたことが学術上、画期的なことだったのである。

↑11月19日 日本海新聞(クリックすると画像が拡大します)

↑11月19日 読売新聞

↑11月11日の朝日新聞東京版が送られてきた。大阪版よりも扱いが大きい。この日、知事は東京出張だったとか・・・
- 2006/11/22(水) 00:09:42|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:3
http://yamatai.sblo.jp/article/44636377.html
上記ブログに掲載する写真は、秋津遺跡の発掘現場で2011年に撮影したものである。
私はこれは楼観の柱穴ではないかと推測する。
東西に直径1m前後の遺構が3個並ぶ、数m離れて更に1個ある。写真の右側は里道のため発掘調査は行われていない。私はこの里道の下にもう3個の柱穴跡が存在するのではないかと推測する。
もしそうであれば先生が描く楼観に酷似する。
現在この写真の場所は下層まで発掘調査が行われ遺構は消滅した。報告書が刊行されていないので、この遺構が柱穴なのか単なる土坑なのか不明である。
先生の見解をお聞きかせ頂けないでしょうか?
- 2012/06/03(日) 15:41:18 |
- URL |
- 桂川光和 #-
- [ 編集]
前にもいちど似たようなコメントを頂戴したような記憶があるのですが・・・
小生、フィールドワークをおこなう研究者として、現場をみていない遺構・遺物に関してはコメントを控えております。
青谷上寺地の場合、長さ7m以上の柱材がでており、それと複合する部材もあることから、ああいう復元図を書きましたが、環濠集落内部では建物跡がわずかしか検出されておらず、名和町の茶畑山道遺跡でみつかった2間×1間の掘立柱建物を「楼観」のモデルとして設定しました。この建物跡は壕の内側に壕と平行して立っており、柱穴も非常に深く、柱痕を残しています。そういう遺構は「楼観」にふさわしいと思いますが、柱穴3本しか残っていないし、立地環境が不明確な遺構に関してコメントすることはできません。ご了解ください。
- 2012/06/03(日) 16:07:36 |
- URL |
- asax #90N4AH2A
- [ 編集]
ぶしつけな質問に対し丁重なコメントありがとうございます。
この写真だけの情報で何かのコメントををお願いする方が所詮無理なお願いです。
話は変わりますがこの遺跡の今後の発掘状況に注目してください。
今後とも失礼なコメントの書き込みにもよろしくお付き合いください。
それではどこかでいつかお会いできれば幸いです。
- 2012/06/16(土) 23:10:17 |
- URL |
- #-
- [ 編集]