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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

回想「御所野の焼失住居」その1 -縄文建築論(Ⅲ)

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 御所野遺跡(岩手県一戸町)と出会ったのは、平成8年(1996)だから、今から10年前か。わたしは30代の終わり、高田館長(御所野縄文博物館)は40代の半ばであった。 御所野はわたしが本格的に縄文の集落遺跡整備に取り組んだ最初で最後の遺跡である。これ以上真剣にエネルギーを注いだ縄文の遺跡はこれまでなかったし、おそらく、この先あらわれないだろう。この10年を振り返ってみるに、縄文との付き合いが三内丸山でも大湯でもなく、御所野であったことを本当に幸運であったと切に思う。
 遺跡そのものの素晴らしさはいうまでもないが、高田館長をはじめとする現地事務局の体制、林謙作先生を中心とする委員会の学術レベルの高さにいつも啓発されていた。平城宮跡には今でも愛着があることはあるけれども、あの遺跡には必ず「権力」がついてまわる。悲しいことに、その厭らしさに気づいている「権力者」があまりにも少なすぎた(もちろん例外的な方もいた)。御所野は、そういう権威・権力とは無縁の「僻遠性」というか「周縁性」に持ち味があって、それがまた、わたしの気性とよくあっている。

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 平成8年の夏、御所野遺跡の西区で4棟の良質な焼失竪穴住居が発見された。縄文時代中期末(約4000年前)の遺構である。弥生~古墳時代の焼失住居跡なら全国至るところで発見されていたが、縄文時代の遺構となると、炭化材の断片を残す程度ならともかく、上屋構造を復元しうるだけの火災住居跡の発見は皆無であり、事実上、御所野が日本最初のものであった。ちょうどそのころ、わたしは「焼失住居跡の復元」をテーマとする小さな科学研究費をもっていて、御所野のデータはまさに垂涎の的。だが、あえて申し上げておくと、焼失住居跡を研究していたから、御所野に導かれたのではなく、御所野の委員に就任したら、たまたますごい焼失住居跡がみつかってしまったのであって、この偶然性に「赤い糸」を感じないわけにはいかない。
 4棟の焼失住居跡は、大型1棟、中型1棟、小型2棟からなっている。大型は7本柱、中型は6本柱、小型は3本柱と柱なしである。まず掘り下げられたのは中型で、冬になっても調査は終わらず、わたしは型どりした上での埋め戻しを指示し、調査は翌年に持ち越された。2年越の調査の結果、中型の住居跡では垂木材と思われる丸太や壁の堰板が大量に出土した。また大型住居の断面調査から、石囲炉上をのぞく大半の部分に屋根土層が堆積しており、炭化材と屋根土層のあいだにはもやもやとした薄い炭化物層も確認された。以上から、中型注居の上部構造を土饅頭型に復元したパースを描いた(西山和宏画)。

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 一戸町教委の動きは迅速だった。このパースをもとに、翌平成9年(1997)夏、さっそく復元にとりかかったのである。それは、史跡指定地の外側でおこなう実験的な復元であり、調査担当の高田さんと発掘作業員だけでおこなう手作りの復元であった。要した時間は6日間。かかった費用は作業員さんの賃金をあわせて、わずか35万円。以下にその工程を図示する。

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 この土で覆われた竪穴住居の出来は、ほとんど完璧であった。御所野の情報を使って、御所野に先行して土屋根住居を復元した入江貝塚(北海道虻田町)や北代遺跡(富山市)が雨漏りに悩まされているのとは対照的に、調査員と作業員だけで作った復元縄文住居はまったく雨漏りがしない。あえて欠点をあげつらうとすれば、天窓が小さすぎて、室内に煙が充満してしまうことだったが、その煙によって菌類・苔類・キノコ・虫類は燻蒸され、建築部材は黒光りして湿気をはねのけてしまった。
 本格整備が始まる年の前年、すなわち平成11年(1999)の夏、この実験的復元住居を焼くことになった。竣工から約2年後のことである。
  「焼失住居跡のデータから復元した土屋根住居を焼いたらどうなるのか」
それが、最大の関心事であった。

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 家焼きの前々日、復元住居内で「最後の晩餐」を催した。高田さんの奥さんが作ってくださった藷煮をアテに酒を飲んだ。石囲炉の火で鮎も焼いた。鮎を焼くと、火の粉が飛び散る。普通の草屋根であれば、屋根が燃えてしまうのではないか、と心配になるほど火の粉が飛び散ったが、土屋根の垂木や下地(クリの樹皮)に付着した火の粉はたちまち鎮火してしまう。それだけ、土で覆われた屋根は湿気を含んでいるのである。

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 その二日後、復元住居を焼いた。焼くと言っても、なかなか焼けない。まずは天窓を壊して、開口部をひろげ、さらに柱の根本や火棚に大量の薪を配して油をかけ、それに火をつけた。そうでもしない限り、火はすぐに消えてしまう。見学に来ていただれかが「キャンプファイアのようだな!」と口にした。その通りだと思った。キャンプファイアのようにして薪を積み上げ、なんとか炎が燃えさかるようになった。天窓から炎が立ち上がり、その周辺の土屋根や部材がくずれ落ちていった。しかし、2~3時間もすると、火の手は消えてしまった。煙だけがもくもくと立ち上っている。この煙がなかなか消えない。完全に消えるまで2日近く要したのではないだろうか。
 ここであきらかになったことは以下の2点である。
  1)土屋根住居は失火では焼けない。たくさんの薪を用意し、意図的に焼かない限り、焼くことはできない。したがって、われわれが多くの遺跡でみてきた「焼失住居」は、じつは「焼却住居」である。
  2)土屋根住居の場合、天窓周辺は炎が燃えさかり、部材はよく焼けて早めに崩れ落ちるが、途中から炎は失せて煙りだけになり、建物全体が不完全燃焼の状態に移行する。この結果、壁周辺を中心に炭化材がよく残り、主柱に関しても立ったままの状態で鎮火してしまう。この状態は焼失住居跡の出土状況とよく似ている。 (続)

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  1. 2006/11/26(日) 03:56:21|
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