昨夜10時をまわってから、京都にいるタクオがメールで連絡してきた。所用が終わったので、これから会いに行っても良いか、という問い合わせだが、
「車か?」
「いや、電車です。」
という。電車とはすなわち近鉄のことだが、西大寺もしくは高の原から京都方面への最終電車は11時15分前後だから、どう考えても面会は不可能であり、今日に延期になった。
一方、患者は夕食の煮込みラーメン鍋を一家とともに囲んで、ご満悦。それからしばらくソファに腰掛け、テレビをみていた。タクオとメールをやりとりするあたりまで、わたしの横に坐っていたのだが、夜も更けてきたし、そろそろ眠ろうということで、隣の寝室に移動した。
恥ずかしながら、はじめに眠りに落ちたのはわたしのほうだった。小一時間ばかりして、揺り起こされた。患者がわたしを起こしたのである。
「目が覚めてしまって、眠れないの・・・」
驚いたことに、それから患者は、しばらく鬱の症状を示した。
「わたしは、このまま馬鹿になってしまうんじゃないかって思うと悲しくなってきて・・・」
あれっ、と思った。今日の昼も、いつもと同じ発言を繰り返していたからだ。こんな体になってしまったのに、悲しいと思うことがないし、涙が出ることもない、なぜなんだろうと思うの、という吐露である。
それが一変した。彼女は「悲しい」と言って、あきらかな動揺を示しており、どうしても寝付けない。仕方ないから、リビングに連れ戻して、ソファに坐らせた。娘たちがあつまってきた。しばらく雑談して、落ち着いたかと思うころを見計らい、二人の娘が寄り添って寝室につれていった。3人が「川」の字になって一つの布団におさまった。これで、なんとか眠りに落ちるだろう。
ところが、その15分後、患者は再びリビングに姿をあらわした。眠れないし、悲しいのだという。今度はソファに横たわらせた。わたしは、パソコンのキーボードを叩きながら、患者を見守っていた。患者はようやく眠りに落ちた。ひょっとしたら、患者は一部の神経をやられていて、悲しみの感情をなくしていたのかもしれない。その神経が在宅生活とリハビリのせいで復旧してしまったのだろうか。
わたしは「縄文建築論(Ⅳ)」を書き終えた後、2階から布団をもっておりてきて、患者が眠るソファの近くで一夜をあかした。

タクオは昨夜、伏見の向島(むかいじま)にある
ヤンマーのアパートに泊まった。ヤンマーは伏見で建具師の修行中。一方、向島ニュータウンはわたしたち夫婦が新婚生活を送った懐かしい場所である。
タクオとヤンマーは、今日の午後1時前に高の原に着いた。デラックスなフルーツ・セットのお見舞いをもって。二人を「ペパーミント」という喫茶店に連れていった。我が家愛用の古式ゆかしい喫茶店で、定食もカレーもスパゲティもサンドウィッチもみんな美味しいが、とりわけ炭焼きコーヒーの味が絶品のお店。ナベサダのような、渋いマスターが一人で店を切り盛りしている。
ヤンマーとは、卒業後はじめての再会である。他の卒業生からいろいろ情報を得ていたので、カマをかけてみた。
「彼女ができないから、お金が貯まるっていう噂だぞ!?」
「そのとおりです、ハハハ」
二人とも、うちのゼミの卒業生(1期生)だが、同時にサッカー部員でもあって、こうなると、もう一人のゼミ生兼サッカー部員にも電話しないわけにはいかない。その部員は、いま千葉に長期出張中。電話すると、
「シナントロプス・ペキネンシスがですね、遊んでばかりで、やってられません。」
という訳のわからない小言を繰り返した。
南無阿弥陀仏! タクオとヤンマーを高の原まで送って帰宅した。今日は、患者に一つしんどいリハビリを課した。2階まであがってみよう、と提案したのである。箪笥と鏡台がおいてある彼女の部屋までの往復。案外うまくいった。上りは杖をついて、馴染みの
3拍子歩行だが、2歩めは右足ではなく、左足をあげる。そして、最後に麻痺した右足を体全体でもちあげる。心配だった下りは、杖を手放し、壁についた手すりをもって降りた。やはり、左足を最初に動かし、右足をそれにそろえる。無事、1階に戻ってきた。
夕食後、患者は病院に帰っていった。どういうわけか、集中治療室の前にはクリスマス・ツリーが飾り付けてある。ひと月早いけど、
メリー・クリスマス!!
- 2006/11/26(日) 18:44:04|
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