
いま自らの論文リストを再確認してみると、中型の実験復元住居の竣工(1997)から焼却(1999)にかけてのあいだに、御所野に係わる論文を5篇著している。
①浅川・西山和宏「御所野遺跡で出土した縄文時代中期の焼失竪穴住居群」『奈良国立文化財研究所年報』1997-I:p.6-7
②高田和徳・西山・浅川「縄文時代の土屋根住居の復原(一)-岩手県一戸町・御所野遺跡の焼失竪穴住居-」『月刊文化財』6月号:p.55-59、1998
③高田・西山・浅川「縄文時代の土屋根住居の復原(二)-岩手県一戸町・御所野遺跡の焼失竪穴住居-」『月刊文化財』7月号:p.36-40、1998
④浅川・西山「縄文集落遺跡の復原-岩手県一戸町・御所野遺跡の焼失住居から-」『第2回アジアの建築交流国際シンポジウム論文集』:p.333-336、1998
⑤浅川「御所野遺跡 -縄文時代中期後半の環状集落(岩手県)」『建築雑誌』9月号(No.1426):p.22-23、1998

この時期の分析は、中型から大型の竪穴住居にシフトしつつあった。大型住居の場合、床面直上の炭化材だけでなく、もやもやとした炭化物層(屋根下地となる樹皮と推定)が下の炭化材をパックし、さらにその上には屋根土層および周堤崩壊土層と推定される土層が堆積していた。ただし、石囲炉の真上だけは屋根土層が途切れている。以後、断面図にみる土層堆積関係が、焼失住居跡が土屋根か否かの判定材料となっていく。簡単にまとめると、
1)床面直上の炭化材
2)土屋根の下地と考えられる炭化物層(弥生以降の場合はしばしば茅を含む)
3)屋根土層
の3層が明瞭な関係をもってみとめられるならば、その住居跡は土に覆われていたとみて、まず間違いない。御所野の大型住居はその典型であり、もやもやとした炭化物層の下側で、壁の堰板、垂木、梁・桁、棟木?などと推定される炭化材を確認している。炭化材は散乱気味で来運遺跡のような規則性はみとめられないが、それでも遺構を細かにみていくと、残存した炭化材のもとの機能を十分推定できる。
上に示したのは初期の段階の復元パースである。やや長細い饅頭形になっているが、これはあきらかに中型の饅頭形復元案をひきづっているからだ。

ところが、ある段階で突然、一つの事実に気がついた。大型住居の平面は、楕円形や長円形ではなく、弾丸形(シャトル形)をしているではないか。複式炉をもつ入口側では壁のエッジが直線的に長くなるのに対して、その反対側はまるくなっている。柱配置もそれと平行関係を保っていて、7本主柱構造ながら、全体は長細い5角形を呈している。これを素直に復元するならば、入口側は切妻、背面側はドーム状の寄棟になるのではないか。なぜこのことに長く気づかなかったのか。要するに、雪国で子どもたちが作って遊ぶカマクラのような構造ではないか。そういえば、黒龍江南岸でみたホジェン(ナーナイ)族の竪穴住居もこういう構造をしていた。
というわけで、長い検討を経て修正を重ねた結果、大型住居は正面側をストンと切り落とすカマクラ形の構造に復元され、中型についても、カマクラに近い饅頭形に設計変更され、実際に施工された
この構造のもつ意味は、とてつもなく大きい。円錐形テントの竪穴化とは別系統の発生と進化の系列が想定される一方で、縄文後晩期に展開する5本柱系掘立柱建物の源流を考える上でもきわめて示唆的である。
それらについて、もう少し書き足したいと思っていたが、明日は朝から学校訪問を控えている。続きは、またいずれ。(続)

- 2006/11/27(月) 02:16:46|
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