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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

カマクラ形住居の源流と進化 -縄文建築論(Ⅴ)

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 御所野の大型住居や中型住居は円錐形もしくは饅頭形ではなく、カマクラ形の構造をしている。このたび竣工した山田上ノ台遺跡の復元住居もおなじような構造と推定される(↑)。こういう構造・形態はいったい何を意味しているのであろうか。私見では、縄文草創期にみられる斜面の住居構造にヒントがあるように思われてならない。10月17日のブログ「アイスブレイク」で書いたように、縄文草創期を代表する鹿児島の掃除山遺跡や福岡の大原D遺跡では、わざと山の傾斜面を住居集落の敷地に選んでいる。平坦な場所ではなく、斜面に建物をたてるのはなぜなのだろうか。
 平坦な地面に三脚を立てて円錐形に垂木をめぐらせば、たちまち円錐形テントができあがる。その内部に穴をほって、掘りあげた土で垂木尻を固めれば「上野原」型の竪穴住居になる。一方、大原Dや掃除山のような斜面に穴を掘ってしまうと、円錐形の屋根はつくれない。そこに屋根をかけるとすれば「切妻」か「片流れ」しか考えられない。大原D遺跡のSC003は、上部構造が復原可能な草創期の焼失住居跡として稀少な存在であり、炭化材が膜状にひろく残存している。その繊維方向を丹念にみていくと、①求心方向の材、②求心方向と直交する材、③繊維方向不明の材、に分けることができる。また炭化材をとりさった床面には無数のピットを確認できるが、中央の棟通りに深さ10~20㎝のピットは集中しており、何回かの棟持柱の建て替えを示唆している。以上から、図のような構造に復原した。棟持柱に支えられた棟木に垂木(①)をわたして地面と結び、その上に木舞(②)を水平方向に通して屋根下地の樹皮(③)を被せ、土で覆う。屋根に土が覆われていたことを示す土層を明瞭に確認できているわけではないが、炭化材の残りが良いこと自体が土に覆われていた傍証になるであろう。

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 このように、大原D遺跡SC003を例にとって考察すると、草創期の斜面立地住居は穴は縦に掘るのだけれども、斜面の下側を入口として、水平方向に人が移動する「横穴」風の住居ができあがる。これは「洞穴」のイメージとよく似ている。こういう縄文草創期の斜面住居は、小さな洞穴を人工的に造り出したもののようにみえるのである。
 この「横穴」風の斜面住居が平地面で展開すれば、御所野のカマクラ形住居になるのではないか。少なくとも、たんなる円錐形テントからの展開として、御所野のカマクラ形住居を理解するのは無理があるであろう。
 ところで、こういう目で縄文時代中期以降の掘立柱建物をみると、また新しい発見がある。そのきっかけとなったのは、新潟県北蒲原郡加地川村の青田遺跡の掘立柱建物である。青田遺跡では、平成11年から発掘調査がおこなわれ、特異な平面を有する掘立柱建物が複数みつかった。亀甲形をなす6本柱本体平面の片側に2本の小さな張出柱がとびだし、全体として長五角形の平面を呈する建物跡である。大型のSB4は全長10.7m、主柱の直径約45㎝、中型のSB5~8は長軸7~8m、柱根の直径約20㎝をはかる。
 大型および中型の住居跡における平面上の顕著な特色は、本体部分が亀甲形を呈するものの、あたかもオホーツク文化の竪穴住居のように、棟通りの柱が片側では突出度が大きいのに対して、その反対側では出が短くなっていることである。しかも、出の短い側に2本の張出柱をともなっていて、その張出柱は径が10~15㎝程度と非常に細い。青田遺跡の場合、柱根の残りが非常によかったから、こういう独特な柱配列に気づいたのだが、いま一度先行例を確認してみると、下田村の藤平A遺跡などでも、ほぼ同類の柱穴配列をもつ掘立柱建物跡が数棟検出されている。

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↑大原D遺跡SC003復原模型(縄文草創期) ↓鳥居南遺跡SB4[焼失住居]復原模型(弥生後期)
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 問題は、この掘立柱建物跡がいかなる上屋構造を有したのか、という点に尽きるであろう。縄文時代中期以降にみられる亀甲形平面の掘立柱建物は、弥生時代の独立棟持柱をともなう掘立柱建物とは、似て非なるものであり、独立棟持柱かにみえる前者棟通りの柱は、寄棟風求心構造の屋根を支える妻側先端の側柱とみなしうる。青田遺跡の掘立柱建物においても、出の長い一方の妻柱については同類の側柱と推定できる。しかし、他方の妻柱については、出が小さく、寄棟風求心構造の屋根を作ることは不可能といって過言ではない。この妻柱は、おそらく梁の外側にあってそれに接する棟持柱であろう。この場合、棟木は寄棟側ではおそらくサス、その反対側では棟持柱によって支えられる。棟持柱の側は切妻造となって、附属する二つの張出柱によって、前面に妻庇を備えていたとみてよいだろう。
 わたしの復原案をよくご覧いただきたい。それは、御所野遺跡の大型竪穴住居や鳥居南遺跡SB4復原模型(島根県太田市、弥生後期)の外観とよく似ている。縄文時代中期以降の竪穴住居と掘立柱建物は柱配列が基本的によく似ており、それは竪穴住居が地上化することによって掘立柱建物が成立したことを暗示している。こうしてみると、青田遺跡の掘立柱建物は5角形柱配列を有するカマクラ形竪穴住居が、低湿地に適応するかたちで地上化した可能性が高いといえよう。城之越遺跡などにみられる「庇」のない単純な5角形柱配列の掘立柱建物も、ほぼ同じ位置づけが可能と思われる。
 人工の洞穴として出発した斜面の住居は、竪穴住居の枠組内での進化にとどまらず、特異な掘立柱建物への脱皮もなしとげた。そういう道筋を思い描いている。

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  1. 2006/12/11(月) 17:45:03|
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 はじめまして。カミタクこと神山卓也と申します。

 私が運営するホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「鹿児島市立ふるさと考古歴史館訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANAC.HTM
から貴記事にリンクを張りましたので、その旨報告申し上げます。

 今後とも、よろしくお願い申し上げます。


  1. 2009/09/13(日) 10:09:43 |
  2. URL |
  3. カミタク(鹿児島市立ふるさと考古歴史館訪問記) #O/BmnR6Q
  4. [ 編集]

カミタクさん

鹿児島市立ふるさと考古歴史館、懐かしいですね。
リンク、ありがとうございます!

  1. 2009/09/13(日) 14:08:28 |
  2. URL |
  3. asax #90N4AH2A
  4. [ 編集]

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