再び県埋蔵文化財センターの依頼により、琴浦町の弥生建物跡を視察してきた。梅田萱峯遺跡の焼失竪穴住居(中期後半)は通常とは異なる焼け方をしている。一般的には、壁に近くなればなるほど炭化材の残りはよいのだが、この焼失住居では炭化材が中央部分に集中し、壁際ではほとんど残っていない(写真上)。焼土塊も少なく、おそらく全体が生焼けの状態で、垂木尻に近いほうの材は焼けないまま倒壊し、腐朽したのではないだろうか。一方、箆津(のつ)乳母ヶ谷第2遺跡の焼失竪穴住居(後期)は、これとまったく対照的で中央部分に分厚い焼土層が堆積するが、炭化材は少なく、壁の近辺に炭化材と炭化茅が集中している。こちらは焼け方が猛烈に激しく、垂木尻近くまで火がまわったようで、垂木尻直下の土まで硬化していた(写真中)。先日、問題となった1時期か2時期かという問題については、大川くんの主張するように2時期であることはほぼ確定したが、重複関係は非常に複雑で、断面調査を慎重におこないながら掘り下げを進めるように指示した。


琴浦から伯耆町に車を走らせ、今度は坂長下屋敷遺跡で奈良時代後半の掘立柱建物跡をみせていただいた。南北棟と東西棟が近接しつつL字形に配置されているが、堀形が大きい割に柱痕跡は15~18㎝と小さい(写真下)。一部に根腐れした柱を据え付けなおしたであろうと思われる痕跡も確認できた。この遺構がどのような用途の建物なのかを担当者たちは質問してきたが、
「遺構だけで機能を判定することはできない」
と答えた。遺物が極端に少なく、とりわけ建物の機能を裏付けるような墨書土器や木簡は1点も出土していないのだから、安易な解釈は導けない。ただ、遺物が極端に少ないということは、生活の匂いがないということだから、居住施設説にとっては不利に働くだろう。いずれにしても、あまり過大な評価を下すべきではないし、それを期待してもいけないだろう。

梅田萱峯第3遺跡では、梁間1間×桁行3間の独立棟持柱付掘立柱建物(中期後半)もみつかっている。梁行柱間寸法は2.8mと短く、柱穴は深いので、高床の可能性は十分ある。いわゆる近畿系「祭殿」もどきの建築で、伯耆における4番目か5番目の出土例である(因幡・出雲では未検出)。下の写真は掘立柱建物の側柱穴。中に蝉と蝉の抜殻、雨蛙が2匹。はたしてこの深い穴をカエルさんは登り切れるだろうか?
- 2005/07/26(火) 20:38:26|
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