
もう一つの世界遺産たる中国住宅「鄭家大屋」のことが、どうしても気になったので、朝いちばんで出向いてみた。やはり鄭家屋敷は修復中で公開されていない。外観は
廬家よりも中国的にみえたが、昨日入手した林発欽(主編)『澳門歴史建築的故事』(澳門培道中学歴史学会、2005年7月)によると、アールデコなどの洋風近代意匠の影響を受けているという。この住宅は、中国近代の著名な思想家・鄭観応[1842-1922]の生家としてよく知られている。建築年代は1881年前後。施主は鄭観応の父親である。
屋敷のなかに入れないので、対面にたつ小さな蕎麦屋に入って朝食をとった(↓)。マカオで「食」に失敗することはほとんどない。この大衆食堂の湯麺もとてもおいしい。味の系列からいうと、タイのスープ麺とよく似ている。ベトナムでいうフォー(米粉)麺もある。たぶん魚醤か蝦醤が汁の下味として効いているのだろう。


鄭家屋敷から西にむかって道なりに歩いていくと
媽閣廟に出る。今日は廟ではなく、近くにある海事博物館を訪れた。船と航海に係わる総合的な展示をそこで体験できる。媽閣廟の初期の姿も模型展示されていた(↑)。ここでまた、文献をいくつか仕入れた。なかでも『澳門的起源』(澳門海事博物館、1997年12月)というタイトルの冊子にはドキリとさせられた。アメリカ人のロバート・ユーサイリスが1958年にシカゴ大学に提出した修士論文(社会科学院歴史系)の訳書である。ユーサイリスは、欧文・中文の史料を対比させながら、ポルトガル植民地としてのマカオの起源を論じている。残念ながら、マカオの語源には興味を抱いていないようだ。
さて、海事博物館のミュージアム・ショップで鳥取弁に遭遇した。二人の男性が会話していて、その語気に強い鳥取弁のイントネーションを感じ取れたのだが、岡山や広島も似た抑揚があるので、決めつけてはいけないと、さらに耳を澄まして会話に耳を傾けた。すると、「むらう」という動詞が男性の口から発せられた。因幡では、「もらう」を「むらう」と言う。「~だわいやぁ」「~けぇなぁ」も頻繁に口から出てくる。やはり、因幡人である可能性は高いであろう。あとで女性が一人加わった。3人の来澳の目的は、どうやらカジノらしい。

↑聖フランシスコ・ザビエル教会 ↓「安徳魯餅店」のエッグタルト
自転車タクシーに乗っていちどホテルに帰り、しばらく休んでから、午後はコロアネ島に向かった。
聖フランシスコ・ザビエル教会の近くには、漁民が集住する「船人街」がある。2001年2月の訪問で、この地域にスクウォッターとしての水上集落を発見した。どうやら、その水上家屋「魚欄」の数が減ってきている。かつては船上生活者の不法占拠地として住居の役割をもったはずの水上家屋は、いまでは住居としてよりも干魚・蝦醤・オイスターソースなどを売る店舗としての機能が強化され始めており、街路対面の家屋に居住機能を移しつつあるようで、一部の水上家屋は撤去されていた。その水上家屋の基礎だけを展示する場所もある。
教会と船人街の中間あたりには、マカオが世界に誇る「安徳魯餅店」というべーカーリーがある。この店のエッグタルトのうまさは尋常ではない。とくに焼きたてのタルトの味は凄い。クロワッサンをはじめとするパンやデザート類の質も高い。小さな民家を売店にしているが、次々と車が門前に停車し、エッグタルトや他の品々を買い求めては去っていく。対面の広場で、タルトを頬張る客も後を絶たない。最近、近くにカフェを併設し、エスプッレッソが飲めるようになっている。
繰り返すけれども、マカオで「食」に失敗することはない。食べ過ぎ、要注意だ。

↑船人街の水上高床住居(魚欄)集中区。↓遺跡化した魚欄の基礎
*連載「聖誕澳門」は以下のサイトでご覧いただけます。
聖誕澳門(Ⅰ) 聖誕澳門(Ⅱ) 聖誕澳門(Ⅲ) 聖誕澳門(Ⅳ) 聖誕澳門(Ⅴ)
↓船人街の町並み。左が海側の魚欄、右がやや新しい2階建の住居。

↓表札と「天官賜福」のお札。真下に必ず「門口土地財神」を併祀する。


↑↓魚欄の外と内。


↑採れたて殻付きの牡蠣 ↓干し牡蠣

- 2006/12/28(木) 23:59:58|
- 文化史・民族学|
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