
その夜の月はもうほとんど光っている部分は無く、まがった針のようだった。明日は新月だろう。今日が晴れて良かったと思いながら手に持った箱を開けた。中には黒い木でできた手鏡が入っている。今日の昼にメアリが手に入れて来たものだ。メアリには少し高価なこの鏡を手に入れるためにお小遣いを全て投げ打った上に、朝から母親に頼み込んで多少の援助を得た。そのお金をもって町の雑貨屋へ走って長い時間をかけて選んだものだ。残ったお金でクロスを買うと一点の曇りも残らないように丁寧に丁寧にふきあげた。木の部分まで薄く光る手鏡をことんと窓際におくと、もぞもぞとベッドの中に潜り込んで目を閉じる身動きせずにじっとしているとかなり長い時間が過ぎていったように感じる。やがて
耳にかすかにさく、さく、という音が届いた。メアリは跳ね起きると上着も着ずに窓を開ける。
少年は突然開け放たれた窓に、驚いた顔をしていた。
「…今晩は、ヴィオレット。」
「今晩は、メアリ。」
いつもの挨拶に、ほっとして涙が出そうになる。それに今日は自分から挨拶することができた。しかし、すぐに謝らなくてはならないことを思い出し、顔が強張る。
「ごめんなさい。」
その言葉にヴィオレットは軽く微笑みながら黒い鏡をちらりと見た。
「鏡を割ってしまったんだね。」
「そうなの、貸してくれたものだったのに本当に御免なさい。」
「素直に謝ることはいいことだよ。それにちゃんとあの鏡でなくても僕には会える、と気づいたようだしね。鏡よりそっちの方が重要な事だったから。」
でも、特別な鏡だったんでしょう、と泣きそうな顔をするメアリにいやいや、とヴィオレットは手を振った。
「確かに特別な鏡ではあるんだけどね。けして曇らないように特別な薬が表面に塗ってあるから魔力を取り込みやすいし、映し出しやすい。でも本体自体は普通の鏡だよ。」
だから君は昨日あんなに泣くことは無かったんだ、といわれてメアリはヴィオレットを見た。どこからか見ていたらしい。
「来てみたら割れた鏡が窓辺に置いてあって、小さな泣き声が聞こえた。でも僕にはどうすることもできなくてね。屋根の上で君が泣き止むのを待ってた。」
泣き声を聞かれていたことがどうにも恥ずかしくてメアリの頬がわずかに赤らむ。少年は悪戯っぽく笑いながら、丁寧に鏡を磨いたね、少しの曇りも無いからよく映っている、と言った。
「ただ、昨日鏡が割れたのを知ったときは別の意味で焦ったよ。」
ここからは、僕が謝る番なんだ、とヴィオレットは笑うことを止めた。その瞳はいつになく悲しげな青をしている。
「ごめんね、メアリ…あまりに楽しかったのでつい先延ばしにしてしまっていたけれど、僕は雪が降るうち、冬であるうちしか、その場所にいることはできないんだ。」
だから僕は春を知らない、と寂しげに笑う少年をみてメアリはヴィオレットが言いたいことがわかった。別れを告げようとしているのだ。
「いつまで?」
「…明日だ。明日今年最後の雪が降る。大雪じゃない。雪たちはさらさらとこの場所に別れを告げる。そして、僕も。」
あまりにも突然だったのでメアリは言葉をなくしてただヴィオレットの星を写す透明な瞳を見つめた。
「ごめんね、本当はもっと早く言うつもりだったんだ。でも、どうしても言えなかった。」
「明日は?明日は会えるのよね?」
ヴィオレットは申し訳なさそうに首を横に振った。
「どうして?明日まで冬なんでしょう?」

(続)-KA-
*童話『雪の夜』 好評連載中! 明日、今年最後の雪が降る。
冬の終わりとともに、ヴィオレットは姿を消すとメアリに告げた・・・ 「雪の夜」(Ⅰ) 「雪の夜」(Ⅱ) 「雪の夜」(Ⅲ) 「雪の夜」(Ⅳ) 「雪の夜」(Ⅴ) 「雪の夜」(Ⅵ) 「雪の夜」(Ⅶ) 「雪の夜」(Ⅷ) 「雪の夜」(Ⅸ) 「雪の夜」(Ⅹ) 「雪の夜」(ⅩⅠ) 「雪の夜」(ⅩⅡ)
- 2007/01/09(火) 00:37:20|
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