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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

大極殿の上棟式

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 ネタがなくなると、だれかが送信してくれたメールを利用してブログにあげてしまう悪い癖があることを、いちおう自覚しているつもりだ。反省はしているのだが、しかしその一方で、おもしろいネタを目の当たりにすると、ブログに掲載したい衝動にかられてしまう。こういう場合、もちろんメールの送信者は徹底して匿名にしないとまずい。文面をそのまま引用するのもできるだけ控えて、こちらで加工する。ところが、数日前のブログでは匿名者から実名でコメントを頂戴して、キョトンとしてしまった(註:この記事を読んだコメンテータより依頼があり、削除済み)。こういうこともある。しかし、基本は個人情報の保護であって、そのことを承知してはいるけれども、わたし自身、なんどかこの原則に抵触している。自分が攻撃的になっているときにそういう違反を犯してしまう。要注意だ。

 今月16日、「寒中お見舞い申し上げます」という題目のメールを頂戴した。送り主は某事務所の修理技師。挨拶文のあと、「平城宮大極殿復原工事は昨年12月12日に上棟を迎えました。完成まであと3年です。」という短文が続き、上の写真が添付してあった。正直、現場をみてみたい、と思った。
 わたしは、平城宮第一次大極殿の遺構解釈と基本設計に関わり、実施設計の途中、というか着工の直前に敵前逃亡した者である。その後、気になって、なんどか現場をみせていただいた。2005年の2月には、修学旅行(特別講義)で2期生を復元工事の現場に連れていった。しかし、以来まる2年、工事現場を訪れていない。
 あまり知られていないだろうが、平城宮第一次大極殿の遺構はほとんど残っていない。基壇地覆石の据付痕跡と抜取穴が部分的に溝状に残っているだけで、柱の位置すら不明なのである。いろいろな2次資料を使えば、なんとか平面を復元できないことはない。しかし、その上屋となれば話は別だ。だから、復元そのものに大反対だった。復元案にも反対だった。第一次大極殿は最初から最後まで「重層入母屋造」とイメージされ続け、その復元案は覆らなかったのだが、わたしは「重層入母屋造」案にも一貫して批判的なスタンスをとり続けた。最後の最後まで反対し、大極殿の委員会では、葉巻をくゆらす考古学の大先生から怒鳴られたこともある。

 復元の検討をはじめたころ、唐長安城大明宮含元殿に代表される中国宮殿建築の主要殿舎の形式「四阿重屋」(周礼考工記)を意識して、平屋の寄棟造に裳階(もこし)をつけた形式をわたしは想定していたが、その後は裳階のない寄棟造の可能性が高いだろうと思うようになり、さらに最終的には「平屋の入母屋造」でほぼ間違いないだろうと考えるようになっていった。復元は不可能といいながら、ここまで断言するのはおかしい、という逆批判を頂戴しそうだが、艱難辛苦の末たどりついた到達点が「平屋の入母屋造」であった。「平屋の入母屋造」といえば、伊東忠太が復元した平安神宮の形式だが、わたしは奈良時代の大極殿についても伊東の復元案が妥当だろうと思っている。重層入母屋造案を頑として譲らなかった古代建築史や考古学の大家たちの考えは間違っている。かれらは伊東忠太に敵わなかった。その理由については、いつか詳細に述べる機会があるだろう。

 こういうわけで、大極殿には感情的なこだわりがある。こんな文章にする気はなかったのに、こうなってしまうのである。
 だから、現場に行けないのだろう。

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↑↓大極殿の覆屋(素屋根)。この中に入るには、大変やっかいな手続きが必要なんです。
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  1. 2007/01/20(土) 01:30:43|
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