
一夜あけた2月5日(月)、再び妻木晩田事務所の体験学習室に足を運んだ。鳥取県が主催する2006年度
「課題対応スキル向上事業」として、「考古遺跡発掘調査担当職員に対する古建築講座」のためである。事前情報では、28名もの文化財主事(考古学)が参加申し入れくださったとのことで、まことにありがたいと思いつつ、模型制作にはひろいスペースが必要だから、会場にみんな入り切れるのだろうか、と心配していた(当日、欠席と早退が4名あった)。
すでに広報したとおり、講座の研修目的は、「遺跡から出土する建築部材や焼失住居等の調査に必要な建築学的知識を習得し、研究成果を高めるための能力を養うこと」である。今回は、鳥取の発掘調査現場で毎年出土する「焼失竪穴住居跡」の理解を深めるために、その遺構の出土状況から、住居の上部構造を1/20模型として復元することにした。講座では、まずわたしが「土屋根住居とは何か」という短いレクチュアをして、竪穴住居構造復元の基礎を参加者に伝えた。福島市の宮畑遺跡でおこなわれた焼失住居跡シンポジウムのパワーポイントに、
利蔵が復元した富山市打出遺跡のデータを付け足した「手抜き」の資料で、主催者や講演者には大変申し訳ないと思っている。ただ、大切なことは、講演を早く切り上げることだと割り切っていた。模型制作をできるだけ早くスタートさせないと、閉講時間までに模型が完成しない。予定では、午後から模型制作の段取りとなっていたのだが、11時20分ころから地形復元模型の制作が始まった。

地形復元では4班(妻木晩田グループ)が圧倒的に手際よく、他の班をリードしていた。ところがところが、そこからなかなかおもしろい展開になって行ったのです。作業は午後3時半で終了。その後、各班の代表者から遺構と復元について説明していただき、わたしが講評をおこなった。以下、班ごとに成果を報告しておきましょう。
1班 妻木晩田遺跡妻木山SI161 弥生後期 河合 加藤 祝原 (坂本 高橋浩)

遺構図をみて1/40スケールではないか、と思うほどの小型住居。地形も平坦で、要するに、労働量がそんなに大きくないから、制作をつねにリードした。長方形平面の2本主柱で、遺構をみて「両面切妻」のタイプだと直感したが、一方の妻側に放射状の部材が残っており、そちら側の棟持柱も壁面からやや離れていることから、一方のみ寄棟構造とした。片方が切妻、他方が寄棟のカマクラ型である。これで妥当な理解だと思う。この焼失住居では、サス、モヤ、板垂木、焼土がみつかっており、板垂木の中には幅40㎝程度のものまで含まれている。
2班 南谷大山遺跡BSI01 弥生終末期 岸本 家塚 大野 原田 鳥羽

わたしが1992年に指導した懐かしい焼失住居跡。焼失竪穴住居の研究の始めるきっかけになった遺構である。遺構は隅丸方形の4本主柱。その4本主柱が壁から離れて中央に寄っている。炭化材は主柱より外側に多く残っており、垂木は板材と棒材を併用している。このグループはまず弥生人の人形(ひとがた)を作った。弥生人の身長を150㎝?とみて、その手をあげたポイントを桁の位置とみたのである。あとでも述べるが、主柱が内寄りにある場合、柱をやや高めにしないと必要な屋根勾配を確保できない。地形との関係、および炭化材の分布から平入と判断している。良くできていると思う。
3班 下味野童子山遺跡SI-01 弥生中期中葉 谷口 坂田 濱 西河 石田

美女と野獣の軍団。それはどうでもよいのだが、遺構に驚いた。中央に土壙をもち、その両側に2本柱をもつ円形平面。いわゆる「松菊里型住居」である。県西部では、これまでも「松菊里型住居」がみつかっていたが、県東部の事例は知られていなかった。しかも、焼けて炭化部材と焼土を残す「松菊里型住居」であり、全国的にみても珍しい、というか唯一の例かもしれない。このほか、竪穴内部に大量の土器を残し、外側では周堤溝まで検出されており、「松菊里型住居」に関する情報量の多さでは群を抜いている遺構であろう。
同じ2本主柱でも、1班のそれとは違って、平面は円形を呈している。これは難しいだろうと思って、わたしが構造についてアドバイスした。
アイヌのケツンニ(三脚構造)を採用することにしたのである。ケツンニは狩猟採集民の
円錐形テント構造に起源すると言われており、縄文早期の竪穴住居にみられる3本主柱はこの3脚を支えるものとみて間違いない。アイヌの住居チセでは、梁・桁上の両側にケツンニを立ち上げ、その頂点に棟木をわたして小屋組を作る。「松菊里型住居」でも2本柱の直上もしくは近隣に三脚構造を立ち上げ棟木をわたせば楕円形に近い円形平面を覆う屋根構造ができあがる。
「松菊里型住居」は渡来系の環濠集落や水田稲作農耕との相関性が強く、「新しいタイプの草葺き住居」というイメージを抱いていたが、少なくとも鳥取県東部の場合、土に覆われていたことがあきらかになった。「松菊里型住居」は九州北部に伝来した当初から土被覆のものがあったのか、鳥取方面に伝播してきた後に土被覆に変容したのか、非常に興味をそそる問題である。
追記: 今回はケツンニを2本使って棟をつないだが、平面はほぼ完全な円形を呈しており、2本使うべきかどうかについて考え直していた。おそらく、ケツニンは1つでその頂点は円形平面の中心に位置する。その頂点から竪穴の全周をめぐるように垂木が配列する。これは円錐形テントの構造と同じである。2本の棟持柱は煙出(越屋根)の棟木をうけるために配置されたもので、棟木は円錐構造の頂点と2本の柱で支持されていたのではないか。こういう構造は草屋根には適しているが、土を被せていたとしたら垂木が撓んできたであろう。いちど模型をつくりなおしてみるほかなさそうだ。(2月10日記)4班 妻木晩田遺跡妻木山4区SI150 弥生後期後葉 松井 馬路 牧本 野口 (岡野)

妻木晩田整備で基本設計を進めている遺構。前日、業者としてピエールが模型をもってきたが、悩みが多く、復元について相当なぶれがみられた。まず重要な点は、この住居跡が傾斜面に立地し、上方側にテラス遺構をもつこと。この手の住居を復元するときのポイントは、テラス状遺構とレベルをあわせて、周堤を下方側にめぐらせること。そして、テラス状遺構の内側にサスを納めることである。このグループは4本の主柱をかけ、長軸側で中間のサスを納めるところまでは出来たのだが、妻側で作業が中座してしまった。中間のサスがどうしても、テラスの内側に納まらなくなってしまったのである。この原因については、5班との対比から説明したので、次項を参照。
5班 笠見第3遺跡SI40 弥生後期後葉 恩田 浜本 大川 浅田 前田 柚垣

4班とよく似た遺構で、斜面に立地しテラス状遺構をともなう。隅丸方形の4本主柱である点は3・4・5班で共通しているが、3班は主柱が内寄りにあり、4・5班はそれが壁際にある。一定の屋根勾配を確保しようとする場合、前者では柱を高めに、後者では柱を低めに設定する必要がある。5班は最初、柱高を200㎝としていたが、構造が大きくなりすぎてサスがテラス内に納まらなかった。その後、わたしの指示により、柱高を160㎝まで切り縮めて組み直したところ、サスはテラスの内側にぴたりと納まった。この状態での屋根勾配は8/10である。構造をまとめ切れなかった4班に問うたところ、柱高は180㎝、屋根勾配は9/10だという。結論を述べるならば、4班は思い切って柱を切り縮め、勾配を緩くして構造を組み直すべきであった。そうすれば、5班のように遺構にあう小屋組を作ることができたであろう。4班の失敗と5班の成功は、わたしにとっても非常に良い教訓となった。模型は何度も作り直さなければならない。駄目だと思ったら、ただちに解体して寸法と勾配を再検討すべきなんだな。何度も作りなおすことによって、整合性のある模型ができあがる。そうすることによって、ようやく基本設計図に着手できる、ということだ。

このワークショップ、大変楽しく指導させていただいた。わたし個人は、少々「焼失竪穴住居跡」の研究に飽きてきているところもあるのだが、こうして大勢の技師さんを指導することによって、また新しい発見があり、興味が湧いてきた。このような機会を与えてくださった県教委文化課に深く御礼申し上げたい。
ただ、ひとつ残念だったことがある。ピエールとホカノを参加させるべきだった。前夜まで二人は米子にいたのに、気楽に帰してしまったのは大失敗だった。技師さんたちと一緒に模型を作って、竪穴住居復元の基礎を再確認させるべきだった。そうしておけば、妻木晩田復元事業の前進にもつながったと思い、悔やんでいる。

↑研修後の記念撮影(クリックすると画像が大きくなります)
- 2007/02/07(水) 13:27:46|
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