昨日は朝9時に起こされた。家内に起こされたのである。
昨日のブログをアップしたのが午前5時だから、実質4時間も寝ていない。公聴会のための練習会を午後2時からセットしていて、京都発10時51分(大阪発11時22分)のスーパーはくと5号に乗れば、午後1時50分に郡家(こうげ)駅に着く。連休にタクオが鳥取に戻っていて、郡家まで迎えにきてくれるというので、午後2時ジャストに大学に入ることができるだろうと計画していたのである。
次女が運転するワゴンRで高の原駅か西大寺駅まで送ってもらうことになっていて、急がなければならないのだけれども、家内の様子がおかしい。じつは、この連休の3日間、彼女は寝込んでいた。麻痺している右半身と腰に痛みを抱えていて、まともに歩けないぐらいの状態になっていたのである。それで、一度は県立病院に行こうとしたらしいのだが、リハビリ担当の医師に電話したところ、「リハビリのやり過ぎ」で筋肉が悲鳴をあげているのだと諭され、病院に行くのをやめたのだという。
わたしが帰宅した週末の状況がそうだった。体は次第に回復の兆しをみせはじめ、昨夜は息子と3人で「丹永亭」という近くのうどん屋さんに夕食にでかけた。もう大丈夫だ、と思っていた。
とこらが一夜あけて、家内の行動がおかしい。わたしがあせって出発しようとするのに、ご飯を食べ始めるのだ。朝ご飯を食べないと、食後の薬を飲んではいけないと思ったのだろうか。ところが箸がまともに扱えなくなっている。ご飯をぼろぼろこぼしまわるから、次女に何度も叱られていて、変だなと思い始めた。
わたしは「どうしたの?」と質問した。しかし、ちゃんとした日本語が返ってこない。呂律がまわらない。言語能力が大きく低下している。
しかも、彼女は出かける準備をし始めた。
「どこに行くの?」
と訊ねると、どうやら「病院に行く」決意を固めていることがわかってきた。なんとかかんとか聞き取りを続けていくと、早朝、歯磨きをしているときに、5分ばかり頭痛が走ったのだという。その後、ふだんは右手でもてる本がもてなくなっていることが分かった。麻痺している右手の握力がさらに弱くなっているのである。医者と薬を異常に敬遠する家内が、病院に行く決意を固めている、ということは、よほど体調に異変を感じているということだ。
わたしは鳥取に戻るのをあきらめた。次女とともに、県立奈良病院に同行することにした。病院は連休の最終日。急患でごったがえしている。さいわい脳神経外科の先生が当直で、診断を待つほかなかった。その年配のドクターはかつての主治医ではなかったが、家内の症状をよく知っていた。ただちにCTスキャンを撮ることが決まった。
その控え室で、わたしは予感していた。
「再出血した可能性が高いね・・・麻痺がひどくなっているんだから・・・」
果たして予感はあたっていた。CTスキャンのネガをみると、前回とは異なる部分で出血がみとめられる。範囲は3㎝×2.5㎝程度。前回ほど危険な部位ではないそうだが、家内はあきらかに言語能力を大きく減じていた。血圧は低く抑えられていて、出血の原因はやはり脳動静脈奇形以外に考えられないという。もちろん即刻入院である。
わたしも娘も頭を抱えてしまった。ありえないことではないけれども、一度めの発症からわずか3ヶ月しかたっていない。また一から治療と療養と看病のやり直しだ・・・気が遠くなりそうだった。
通いなれた3階の脳神経外科は病室が満杯で、6階の整形外科の4人部屋にまわされた。すでに腕には2本の点滴が打ち込まれている。ベッドに横たわった患者は昏睡状態に陥った。もちろん意識はある。呼べば答えが返ってくる。しかし、また娘の名前を間違えるようになってしまった。ただし、前回のように吐き気や微熱はない。
わたしは疲れていた。看護師さんに補助ベッドを出してもらったら爆睡してしまい、
「大鼾をかいてましたよ、お疲れなんですね」
と言われて、同じ看護師さんに起こされた。佐治の実家と東京に戻ったばかりの長女に電話をした。みんな来るという。とんぼ帰りする長女とは対面できたが、佐治の両親とは入れ違いになって、わたしは夕方6時、最終のスーパーはくとに乗るために病院を離れた。
公聴会の練習については、某助手に電話して指導を代行していただくことにした。また、某助教授にも連絡をとり、今後の対応を相談した。練習会はどうだった、とメールで訊ねたら、じつに5時間にも及んだという。
明日の発表を楽しみにしている。そのあとは、トンボ帰りだ。
- 2007/02/13(火) 00:54:26|
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