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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

のびたインタビュー -大山町文珠領遺跡の大型建物を探る

 ノビタです。

 このまえ、先生を「飛鳥」にお誘いしたのですが、あまりにご多忙でお疲れのご様子だったので、断念しました。そうこうしていると、大山町教育委員会から「文珠領遺跡」の記者発表を29日(木)の午前10時からおこなうとのFAXが記者クラブに届きました。また、昨年の青谷上寺地のような大報道になるのか、心配になってきたもので、ひさしぶりに先生に電話インタビューさせていただきました。

: 先生、ご無沙汰しています。
: ご無沙汰って、17日の倉吉講演会の打ち上げ(4年生送別会)に顔出してたじゃないの。
: えぇ、でも、あのときは車に乗ってたもんで、お酒飲めなかったですからね。だから、20日の夜に「飛鳥」にお誘いしたんですけど・・・
: 「飛鳥」じゃないだろ。おまえさんの魂胆はみえみえだからさ。MOMでしょ、MOMでまたおれを出汁にしようってわけでしょう?? 
: あれっ、そういう展開ですか。その話はまた別の機会に。ところで、オシムJAPAN、ペルーに2-0で勝ちましたね。
: オシムは選手をよくみているね。中村にパスを出すスピードを要求している。中田英のパスだしは早すぎるとよく言われていたけれども、オシム流のサッカーだと、中田ぐらい早いほうがあいそうだね。そうしないと、ヨーロッパでは通用しないのかもしれない。
: オシムJAPANは順調ですか?
: 順調だね、あの監督は賢い。聡明です。問題は五輪代表だわね。今回はオリンピックに出られないんじゃないかな。あのチームもオシムに任せたほうがいいと思うけどね。

20070328042216.jpg

: さて、先生、こんどは大山町文珠領(もずら)遺跡の記者発表があるんです。また、いろいろ困ってまして、先生は現地を訪問されているんですよね。
: 卒業式の翌日(22日)の午後、住雲寺境内の現場をみて、遺物の木材も観察しましたよ。
: まず文珠領遺跡の位置づけですが、周辺の遺跡との関係でいうとどうなるのでしょうか?
: いわゆる茶畑遺跡群の一画ですね。500~600m離れて、茶畑山道遺跡と茶畑第1遺跡の両方と近接している。
: 時期は弥生中期とのことですが、妻木晩田遺跡とはどういう関係になるのでしょうか。
: 妻木晩田は弥生後期が最盛期でしてね、少し時代が新しいんだな。かのハマダバダ1号の学説によると、中期の弥生集落は大型建物で構成されるブロックと竪穴住居主体の住居系ブロックが整然と分離されるのだけれども、後期になると建物が全体的に小型化して、「大型建物ブロック」と「竪穴住居ブロック(居住単位)」の区別がほとんどなくなってしまう。大型建物ブロックがほぼ消滅してしまうんです。妻木晩田は1ヶ所にだけ大型建物があって(利蔵が復元したMGSB41)、残りはほとんど「居住単位」が点在している状況なんですよ。
: 茶畑はどうなんですか?
: これが不思議な遺跡でね、茶畑山道にしても、茶畑第1にしても「大型建物ブロック」しか発見されない。今回の文珠領遺跡もそういう性格のエリアにあたっていると思います。一般住居群は別のところにあって、大型建物が集中しているんだね。
: その「大型建物ブロック」はどういう性格をもっているのでしょうか?
: それはなかなか難しいんだけれど、首長層の居住区兼祭政区のようなイメージでとらえうるんじゃないでしょうかね。例の青谷上寺地の「楼観」モデルになった茶畑第1の掘立柱建物11も、こういうエリアに含まれているんだよ。
: 大山町教育委員会によりますと、独立棟持柱を持つ高床式とみられる大型建物跡の一部がみつかったそうですね。この建物跡は棟持柱、妻柱、側柱の3つの柱からなるとのことですが、小さい発掘調査区なのに、なぜそういう3種類の柱穴だと分かるのでしょうか。
: いまのトレンチだけでは判定はたしかに難しいけれども、茶畑山道で出土している建物跡と比較すると、よく似てましてね。いわゆる「独立棟持柱付大型掘立柱建物」である可能性は高いと思います。
: 高床式だと断定してよいのでしょうか?
: 茶畑山道の類例でいうと、①梁間寸法が短い、②柱穴が深くて中に小石がぎゅうぎゅう詰めになっている、などの点からみて、高床である可能性は高いと思います。ただ、独立棟持柱をもっているからといって、必ずしも高床と言うわけではない。茶畑第1で出た掘立柱建物12は正面のみ独立棟持柱をもつ変則的な建物なんですがね、これは土着的な「長棟建物」の正面だけに近畿型(つまり外来型)の独立棟持柱をつけた融合タイプでしてね。梁間が約5メートルと長いので、平地土間式建物と推定して復元をおこなっています。
: あぁ、あの浅川ゼミの1期生が復元して、模型が妻木晩田事務所に展示してある建物ですね。ところで、その「長棟建物」って何なんですか?
: 茶畑山道の調査区では、近畿系の「独立棟持柱付大型掘立柱建物」以外に、梁間が広くて柱穴もそう大きくない大型建物が併存していてね、たぶん高床ではなく、土間式の大型建物だと思うのだけれど、伯耆ではほかにも何棟かみつかっているんですよ、こういう長くて大きな建物が。これを「長棟建物」と呼んでいる。田和山で復元した2間×6間の建物もこの類じゃないか、と最近思っているんです。
: 先生のお考えでは、その「長棟建物」が山陰土着の大型建物で、「独立棟持柱」をもつタイプが近畿系の外来型大型建物ということになるわけですね。
: そうそう。文珠領遺跡では、後者がひっかかっている可能性が高いんですよ。
: 独立棟持柱の柱穴は直径、深さともに1.2メートルと報告されていますが、全国的にみてこの柱穴は最大級なんでしょうか。
: 深さというのはやっかいでしてね、弥生時代当時の生活面が削られてしまっているので、評価しにくいんですよ。しかし、青谷上寺地の「楼観」モデルになった茶畑第一の掘立柱建物11の場合、遺構検出面からの深さが約1.5メートルありましたから、文珠領が最大級とは言いにくいよね。ただし、他の柱穴の深さが約0.8メートルなんだから、深さ1.2メートルの柱穴が最も長い独立棟持柱の可能性はやはり高いと言わざるをえない。
: 独立棟持柱のある建物は伊勢神宮でもみられるように、格式高い建物の象徴であり、今回の建物も「祭殿や神殿」の可能性がある、そして集落の拠点だったのではと教育委員会はみているようです。
: まず「神殿」ということはありえませんね。「神殿」というのは人間を排除した「神様の住まい」ですから、後の神社本殿の大半ががそうであるように非常に小型化した建物であって欲しいのだけれども、出土しているのは「大型」でしょ。ただし、「神祭り」と完全に係わりがないか、というと、そうでもない。茶畑山道の「独立棟持柱付大型掘立柱建物」の周辺からは祭祀系遺物もたくさん出土していますからね。しかし、祭祀をおこなうからそこが「神殿」だという言い方もできない。人と神が交流する場を「祭殿」と呼ぶなら、そういう建物なのかもしれません。いまの神社でいうなら、「本殿」と「拝殿」が一体化したような施設を「祭殿」と呼ぶならば、そういう可能性がないとはいえません。しかし、その建物が祭祀に特化された施設であったのかどうかが、またわからない。すでに述べたように、茶畑山道の場合、「長棟建物」と「独立棟持柱付大型掘立柱建物」が併存しているので、両者に役割分担があったのは間違いないのだけれども、その役割分担がどのようなものだったのかはわからないんです。
: 難しいですね。結局、この大型建物跡の発見の意義をどうまとめたらよいのでしょうか?
: 茶畑遺跡群の特殊性がますます鮮明になってきたことなんじゃないでしょうか。弥生中期集落の場合、「大型建物ブロック」と「一般住居群ブロック」が鮮明に区画されている例が一般的だと述べましたが、茶畑遺跡群では「大型建物ブロック」のエリアが広域的にひろがっている。ということは、一集落として完結しているというよりも、地域全体の拠点的集落として位置づけうる可能性がでてきているんじゃないかな。

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: もう一つお聞きしたいのは、柱材らしい出土木材のことです。住雲寺前の道路の向こう(5トレンチ)で柱材ではないかと見られる長さ1.5メートル、幅25センチ、厚さ13センチの木材がみつかったと聞いています。先生は「柱材と断定できない」とおっしゃっているそうですが、その理由をお聞かせください。
: 木材の表面には部分的にハツリ痕が残っており、扁平な材木で、しかも先端部分を尖らせていることから、何かの材を矢板として転用したんだろうけれども、当初が柱材であったとは断定できません。上端に貫穴のような仕口状痕跡もあって、ほんと柱のようにもみえるんだけど、穴の加工面が生きていない。人口的な加工痕跡がみとめられないんです。というわけで、柱材としての根拠は不十分なんだな。ただし、「柱材のなれの果て」である可能性も否定できない。
: 材種は何なんですか?
: よくわからないんだな。青谷上寺地のようなスギではない。クリやシイであれば竪穴住居の柱材であった可能性がないことはないんだけれど、竪穴住居の柱材では貫穴を使わないけどね。
: 最後になりましたが、今後の調査に期待すること、について先生のお考えをお聞かせ下さい。
: 今回の調査は試掘ですからね、来年度の本調査の成果が期待されますよね。茶畑遺跡群の特殊性がいっそうあきらかになって欲しいですね。 (この項、完)




 3月30日の夕方、町教委発掘担当者から御礼のメールが入った。
  「いろいろお世話になりました。ただの試掘調査にしては扱いが予想以上に大きかったので、少したじろいでおります。よっぽど山陰地方は平和なのでしょうか・・・。早速、新聞記事を送付します。」
 たしかに知事選と言っても「無風」だからね。鳥取は「平和」なんでしょうね。一方、今回、取材に最も熱をいれていたのは、K通信の記者さんで、かれのメールは以下の通り。
  「弊社が配信致しました記事は、産経新聞の29日付け夕刊で掲載したと産経新聞の記者から聞きました(大阪版だけなのか、東京版でも掲載されたのかは不明)。・・・・ちなみに、弊社を除く新聞各社はいずれも鳥取県版に載せており、県外では徳島新聞と愛媛新聞の30日付け朝刊で掲載されたことが確認できましたので、ご連絡致します。」
 まったくもう、柱穴が3つ出ただけなんですけどね、たしかに産経新聞の夕刊では「神殿」という言葉が踊ってました。嘆かわしいことです。いろんな記者さんから電話でインタビューを受けたけど、ちょっと勉強不足がひどくてですね、ブログもまともに読んでいない。どうやら、ブログ以外の特別なコメントをわたしから引き出したいようなのだけれども、わたしは元々「反マスコミ考古学」派なので、軽々しいことは口にしません。というわけで、わたしのコメントが掲載されたのは、地元N紙のみ。じつは、この米子支局の女性記者のインタビューがいちばんひどかったんですね。
  「現場、行ったんですか?」
  「いえ、行ってないんです。」
  「現場行ってないような記者が記事書いちゃいけないよ。」
  「いえ、ちょっとピンチヒッターなんです。」
  「そんなこと知らないよ・・・記事書く資格ないよ、あなたは。」
  「だから、ピンチヒッターなんです。」
  「名前なんていうの?」
  「****です」
  「わかった、あとで上の人に言っとくから・・・」
  「どうぞ、かまいません。でも、もう少し教えてください。」
  「勉強してきた記者には教えるけど、あなたはブログも読んでないじゃないの・・・」
  「えっ、ですから、読んでも分からないんです。」
  「だから、そういう人は記事書く資格がないんですよ。もう切りますから。」
  「待ってください、もう少しだけ・・・」
  「駄目です・・・(ガチャ)」

20070402160553.jpg
↑2007年づけの日本海新聞(クリックすると拡大されます。)



  1. 2007/03/29(木) 01:34:35|
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