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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

吉田享二という建築家

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 2005年の10月5日にはじめて尾崎家住宅の実測調査をおこなった際、わたしは「民家等建造物調査票」の書き込みを担当した。要するにヒアリング調査をおこなったわけだが、そのとき尾崎家と係わりの深い吉田享二(1887-1951)という建築家の存在を教えられた。昭和4年にハナレを新装し、川沿いにあったブツマをハナレに接続するように移築改装したのだが、その設計者が吉田享二であり、今も青焼きの図面が大量に残されている。
 吉田は旧姓を宮脇といい、兵庫県美方郡温泉町(湯村温泉→現在は浜坂と合併して「新温泉町」)に生まれた。尾崎家とは濃い血縁関係にあり、尾崎家ご当主の父の兄(すなわち叔父)にあたる方である。驚いたことに、かつて日本建築学会長を務めた人物であるとも聞かされたのだが、わたしはその事実をまったく知らなかった。もともと学会などという権威組織とは縁遠い身の上ではあるけれども、とりあえずはわたしだって日本建築学会の会員であり(年会費24,000円を毎年泣々払っている)、いくつかの委員を務めた経験がないわけではない。しかし、学会の長にまで昇り詰めた吉田享二という建築家の存在をわたしは知らなかったのである。当然、報告書には取り上げねばならない人物であり、さきほどまでネットで情報収集していたので、ここにその成果をまとめておきたい。

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 吉田享二は明治20年(1887)に但馬で生まれ、東京帝国大学工学部建築学科を明治45年(1912)に卒業した。卒業設計は「A Post Office with Telephone Exchanges」という様式建築。卒業と同時に早稲田大学建築学科の講師に着任し、助教授を経て大正5年(1916)教授に昇任した。吉田の専門は「建築材料学」であったが、大正14年(1925)から「都市計画」の講義を担当するようになる。早稲田では、東大や京大などに先駆け、大正11年から「都市計画」の講義がはじめられていた。当初は、内務省都市計画局の官僚であった笠原敏郎が非常勤講師として講義を担当していたが、翌年におこった関東大震災の後、笠原は復興局へ異動し、同講義を吉田が受け継いだ。これには関東大震災だけでなく、大正14年5月に発生した北但大地震(マグニチュード7.0)が関係しているとも言われる。以下は、後藤晴彦(早稲田大学教授/都市計画)のコラム「吉阪(隆正)は何を早稲田から学んだか」からの抜粋である。
 北但大地震によって壊滅的な被害を受けた兵庫県城崎町の復興計画に、早稲田大学建築学科の岡田信一郎教授と吉田教授が携わることとなり、城崎の復興ビジョンとして「災害に強いまちの再生」が掲げられた。具体的には、6棟の外湯と小学校が鉄筋コンクリート造によって再建され、防災都市計画が区画整理によって進められていった。その計画は、岡田のデザイン力と吉田の建築材料学が両輪となって推進されたのである。後藤が指摘するように、この「防災まちづくり」の実践が、吉田を「都市計画」へと導いたことは想像に難くない。
 ただし、ひとつ気にかけておかなければならないことがある。吉田は大正10~11年(1921-22)に欧米留学し、帰国後に建築設計事務所を開設している。吉田は留学前後から建築設計への意欲を強めており、北但大地震の復興にあたっても、デザインが岡田で、材料・構造が吉田というような役割分担ではなく、一人の建築家としても城崎の復興に貢献しているのである。実際に城崎小学校を設計したのは吉田であった。

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↑ハナレ1階(書斎)の外側に設けられた板間のホワイエ。奥にオモヤとハナレをつなぐ「太鼓橋」風の廊下がみえる。 ↓書斎の内部(他の写真もすべて書斎)
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 建築家としての吉田を語るとき避けて通れないのが「日本民藝館本館」(登録文化財/昭和11年[1936]竣工)である。よく知られているように、日本民芸運動の拠点となった施設であり、建築も伝統的な様式を強く意識している。木造2階建瓦葺きの蔵造り風建築で、1階部分の外壁には大谷石を貼り、2階部分は白壁とする。設計は民芸運動の旗手、柳宗悦が吉田の助言をえておこなったとされるが、博学多才の柳と雖も実施設計レベルの仕事ができるはずはなく、実質的には柳と吉田の共作とみなすべきではないだろうか。このほか代表的な吉田の作品としては、東京工業試験所(1922)、小野田セメント本社(1917-26)、第一菅原ビル(1934)などがある。 
 尾崎家ハナレの竣工は昭和4年(1929)であり、北但大地震直後の復興計画推進期と重なりあう。ハナレは1階を洋風の板間、2階を和室8畳とする小振りの建築だが、ハナレ以上にブツマの移築改装のほうが難物であったろう。このブツマは中世末期に近江から流れてきた堅田門徒の道場として建立され、江戸時代中期に建て替えられてはいるけれども、原位置に建っていたならば、今以上に文化財的価値が高かったものをと悔やまれてならない。しかし、居住し生活する側からみれば、それは研究者の戯言にすぎないであろう。

 最後に学会等における吉田の履歴を略記しておこう。
  昭和14年(1939) 早稲田高等工学校[昭和3年開校]校長就任
  昭和22年(1947) 日本建築学会関東支部設立 初代支部長に就任
  昭和24~25年(1949~1950) 日本建築学会長
  昭和26年(1951) 逝去




 吉田享二が宮脇家から吉田家の養子になった年月について、吉田早苗さんにお聞きしていたところ、「サロン木々」のブログ上で以下の説明を頂戴したので転載しておきます(5月7日記)。
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吉田家は子供が、祖母・千代子(戸籍上では千代)一人でした。
そこで、婿を取ることになったのでしょう。
縁あって宮脇家から、祖父と婚姻となりました。
大正3年3月5日。
婚姻・そして養子縁組をしております。

  1. 2007/05/04(金) 23:39:56|
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  1. 2007/08/12(日) 13:53:33 |
  2. 建築学への思い

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