中世の戦乱のなかで、荘園の所有関係が流動化し、日本各地の村落は「惣村」としての自治性をもち始める。琵琶湖水運の要衝として栄えた堅田荘は、その経済力を背景に強い自治性を有し、堺に比肩すべき自治都市に成長していった。堅田には複数の惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」が自治を推進した。殿原衆は「堅田船」と呼ばれる船団を保有して水上交通を支配する一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多かった。
堅田はもともと比叡山延暦寺の荘園として庇護を受けていたが、室町時代になると、宗教が多様化する。まずは殿原衆に臨済宗がひろまって「祥瑞寺」が創建された。この寺では、若かりし
一休宗純が修行している。ほぼ時を同じくして、浄土真宗の「本福寺」が道場を開く。南北朝時代、建武元年(1334)のことである。本福寺の開祖善道は三上神社宮司の家系であったが、諸国を放浪ののち堅田に住み着き、藍染の紺屋を営んでいた。本願寺三世覚如上人の門弟浄信が東国に下向中、堅田に止宿したことが縁となり、善道は浄土真宗に帰依する。本福寺は善道の死後、臨済宗に改宗されていたのだが、三世法住(善道の孫)は近江で精力的に布教する本願寺八世蓮如上人と接するうちに信仰が篤くなり、浄土真宗に再改宗した。
当時、蓮如の活躍と反比例して、浄土真宗と比叡山の対立は深刻なものになっていた。寛正六年(1465)、山門衆徒は大谷本願寺を焼き討ちし、逃げる蓮如を執拗に追跡して、近江金森の道場も攻めている。蓮如は金森から堅田へ落ちのび、本福寺に入った。堅田は金森よりも比叡山に近いのだが、山門衆徒は蓮如をかくまう堅田を攻めなかった。堅田が天台・臨済・真宗など複数の仏教宗派の拠点となる中世の自治都市であったからとも言われている。このわずか一年ばかりのあいだ、堅田の本福寺は大谷本願寺を追われた蓮如の布教活動の拠点となるのである。これを契機に、法住を介して堅田の全人衆が続々と浄土真宗に帰依していった。その集団を「
堅田門徒」と呼ぶ。堅田門徒は本福寺を中心に12の道場によって組織されており、堅田大宮「伊豆神社」の宮座を差配する殿原衆の強力な対抗集団に成長していった。
このように、真宗をひろく布教したい蓮如の思惑と堅田全人衆の思惑はみごとに一致していた。おそらく蓮如の布教活動にとって、堅田以上に重要な拠点はなかったであろう。全人衆を基盤とする堅田門徒は、琵琶湖の最も狭まった位置から水上交通権を掌握し、京・大阪、美濃・尾張方面だけでなく、山陰・北陸方面との交易が盛んで、各地の情報が集積されていたからである。とりわけ、浅井・朝倉の領地を介してつながる北方の日本海沿岸は、かれらにとって流通を独占できる重要なエリアであった。
ここに堅田門徒と山陰の関係が浮かびあがる。堅田に拠点をおく近江商人と真宗門徒たちは、自らの水運力を最大限に活用し、北陸から日本海を経由して山陰にまで足をのばしていたのである。それはまず第一に商業活動としての交流が下地としてあり、そのルートを真宗門徒が布教に利用したものだということを知っておかなければならない。(続)

↑国道9号線からみた宇野集落。かつては日本海が集落に迫っていたが、いまは国道9号線で分断されている。堅田門徒は宇野でも布教活動をした。左奥にみえる入母屋の高い屋根が安楽寺本堂。中央奥の大きな茅葺き屋根が尾崎家住宅。
- 2007/05/06(日) 23:25:50|
- 文化史・民族学|
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