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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

堅田門徒の道(Ⅲ)-家伝書からみた尾崎家のブツマ

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 明治45年の古写真に映る移築前のブツマは、中世に建立された「道場」なのであろうか。昨年の調査では、尾崎家に残る家伝書の解読に腐心した。尾崎家の建造物と係わる重要な記載は以下の2ヶ所にみられる(當尾崎遺命家傳實録)。
 まずは3代清右衛門[1647-1697]のとき。

   夫字蔵屋敷と申地ニ近郡ニ而は石居初之丈夫成家
   (既ニ礎初之能家珍しと評判し近郷之人々見物ニ来たりしとかや)
   并ニ蔵長屋建揃え難儀少ナニ暮候

 これは石場建(礎石建)にする家が珍しいということで、近郷から見物客が押し寄せたという一節だが、他県でもよく似た普請関係文書がしばしば残っている(浅川・箱崎編『埋もれた中近世の住まい』2001参照)。要するに、その当時の日本の一般民家は、いまだ掘立柱建物だったということである。さらに「蔵や長屋を建てそろえる」という記載もある。17世紀の後半、宇野には、それまで農漁民たちが見たこともない豪奢な御屋敷が出現したのである。そして、その地名(字名)は「蔵屋敷」と呼ばれることになった。
 下って5代清右衛門[1745-1772]のとき。

  家督増し家繁盛依之蔵建添度古蔵屋敷ニ而は狭候ニ付為
  子孫只今之屋敷ニ本宅御仏間蔵数ヶ所門長屋等不残新敷普請

 家督が増して家が繁盛したので、蔵を建て加えるたびにかつての「蔵屋敷」の敷地は狭くなったため、子孫は今の屋敷地に本宅(オモヤ)、御仏間(ブツマ)、蔵を数棟、門、長屋などを残らず新しく普請した、ということである。この記載を信じる限り、5代清右衛門の普請は同じ場所での建て替えではなく、別の敷地に移っての新築であったと理解するしかないであろう。したがって、今に残るオモヤや長屋門、蔵数棟はこのときの建築と考えられる。国名勝の尾崎氏庭園「松甫園」は様式上、江戸時代中期の作庭と推定されているが、その年代観と上記建築年代は見事に一致している。主要建造物と庭を一体として、新たな普請が進められていったのである。

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↑ブツマの附書院 ↓オモテ(オモヤ座敷)の附書院
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 以上、家伝書の記載に従う限り、オモヤとブツマの建築年代は同時期とみなさざるをえない。ところが、家人はこれとまったく異なる認識を示し続けた。家人の言を示しておきたい。

  古いのはブツマであり、これは中世に遡る建築で、オモヤはブツマの造りを真似て
  建てたもの。真似た部分は松甫園に面するオモテ(奥座敷)で、その証拠に、
  オモテの座敷飾りや欄間はブツマのそれと瓜二つに作っている。

 たしかに、オモテとブツマの座敷飾りや欄間は「双子」と言ってよいほどよく似ている。しかし、いま二つの座敷を訪れると、あきらかにオモテのほうがブツマよりも古くみえる。これはもちろん昭和4年の移築改装の影響が大きいからであろう。然らば、家人の言と建築の変遷をどう結びつけるべきであろうか。
 わたしは以下のように考えている。
 5代清右衛門による新たな普請に際して、ブツマに関しては「蔵屋敷」にあった中世建立の道場の様式を踏襲し、一部の建築部材を転用して建設が進められたのではないか。だとすれば、それは「復原的再建 reconstruction 」に近い建設行為とみなされよう。現在のオモヤに残る彫刻欄間は中世「道場」時代の遺品であり、仏壇の間の天井を支える三斗の組物も当初の構造形式を受け継いだ可能性が高いであろう。家人によれば、仏壇前の「下げ灯籠」も中世のものであるという。

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 一方、オモヤは、古い道場の座敷飾りや平面(とくに庭との関係)を模範として建設された。それは、「蔵屋敷」に存在したオモヤとの断絶を強調した建築であった。つまり、5代清右衛門がほぼ同時に建立したとはいえ、ブツマは古い形式と古材を継承する「建替え」であったのに対して、オモヤはブツマを模倣した「新築」との認識が強かったため、後世まで「ブツマが古く、オモヤが新しい」という感覚が継承されていったように思われてならない。

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↑ブツマの床と棚 ↓オモテ(オモヤ座敷)の床と棚
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 ところで、宇野では昭和3年4月に大火があり、尾崎家や安楽寺が立地する山手側の一画を残して、集落の大半の民家が焼失してしまった。現在は、瓦葺の民家が旧街道をはさんで密集している。この大火以前には四間取りの茅葺民家が軒を連ねていた。驚いたことに、この四間取りの民家までもが「門徒造」と呼ばれている。日本建築学会編『日本民家語彙集解』(1985)でも、「鳥取県東伯郡羽合町附近の漁村住居において、すべての間仕切りをはずして屋内を一室にして使えるようにした主屋形式を指す呼称である。このあたりにはこのような間仕切形式が多くみられる」と説明している。
 わたしは、ここにいう「門徒造」の民家を調査した経験がない。だから、「門徒造」の民家が、堅田門徒のもたらした「道場」を住宅化したものなのか、たんなる四間取りの民家をさすのかを峻別できないでいる。これをあきらかにする方法はないものか、と日々悩んでいるところである。(完)


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↑オモテ(オモヤ座敷)から松甫園をみる ↓ブツマ外陣側から庭をみる
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  1. 2007/05/08(火) 03:17:42|
  2. 建築|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:2
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コメント

数年前から寺内町のことを勉強していたので、大変興味深く見せていただいています。それにしても尾崎家が関係があるとは。ますます興味がわいてきました。山科は勿論吉崎、井波など探訪したこともあります。大谷破却~金森・堅田~北陸路と再訪し、楽しみながら蓮如と寺内町のことを勉強するつもりです。
  1. 2007/05/08(火) 13:07:18 |
  2. URL |
  3. カメラマン #90N4AH2A
  4. [ 編集]

大学時代の恩師のドクター論文が寺内町を中心とする日本都市史研究だったのですが、わたしは不覚にも在学中にほとんど興味が湧きませんでした。いまこうして、変なめぐりあわせで研究することになってしまい、我ながら驚いています。もちろん仏教には大変興味があるのですが、日本仏教は古代インド仏教からかけ離れ過ぎていて、少し「違和感」を感じるところもあります。蓮如なんか、奥さんたくさんいますもんね。

  1. 2007/05/08(火) 13:13:25 |
  2. URL |
  3. asax #90N4AH2A
  4. [ 編集]

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